2020年10月3日土曜日

【20C_t1 1919(t8)年】

 【20th Century Chronicle 1919(t8)年】


◎ローザ・ルクセンブルク 惨殺

*1919.1.15/ 独共産党のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが惨殺される。


 第1次世界大戦末期、キール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起は、ドイツ全般の都市に波及した。主要都市では「労働者・兵士レーテ」(評議会、ソビエトとも訳される)が結成され、蜂起の主体となった。これは、直前に起きたロシア革命のソビエト(評議会)の影響を受けて組織されたもので、社会主義的な方向性をもっていた。

 1918年11月9日、首都ベルリンは労働者・市民のデモで埋め尽くされた。皇帝側は革命の急進化を防ごうと、皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党(SPD)党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。


 ローザ・ルクセンブルクとともに「スパルタクス団」を結成し、急進的な社会主義革命を目指すカール・リープクネヒトは、混乱に乗じて「社会主義共和国」の宣言をしようとしていたが、その直前に、社会民主党員フィリップ・シャイデマンが、議事堂の窓から身を乗り出して独断で「ドイツ共和国」の樹立を宣言した。その日のうち、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、やがて退位を表明した。

 翌日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府「人民委員評議会」が樹立された。一方で、独立社会民主党の左派ら社会主義的革命をめざす「ベルリン労兵レーテ執行評議会」も、ドイツにおける最高権力を主張し、不安定な二重権力状態が生まれた。


 共和国政府ではエーベルトを中心に、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図る動きが進められ、従来の軍や官僚組織を温存して行政機構を維持、すみやかな秩序回復が目指された。しかし、左右両側の勢力から批判されるとともに、独立社会民主党が政府から離脱するなど、臨時共和国政府は揺らいでいった。

 1918年末には、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心に、「ドイツ共産党」(KPD)が結成された。翌1919年1月には、「独立社会民主党」(USPD)党員のベルリン警視庁長官が解任されたのをきっかけに、政府に反対する大規模なデモが起こり、「スパルタクス団」に率いられた武装した労働者が、ベルリンの主要施設などを占拠した。これは「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれ、政府軍と革命派の間で流血の事態が展開された。


 しかし、革命をリードすべき「独立社会民主党」(USPD)と「ドイツ共産党」(KPD)は、統一した方針を打ち出せず、労働者の運動を効果的に統率できなかったため、労働者たちは自然解散し、政府軍による逆襲を受けた。1月15日までに、革命派は鎮圧され、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは捕えられ、そのまま惨殺された。

 1月19日、国民議会選挙が実施され、社会民主党(SPD)が第一党を獲得した。2月6日、ワイマールの地で国民議会が召集され、国家の政体を「議会制民主主義共和国」とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した。また、大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。さらには、当時世界で最も民主的な憲法とされたワイマール憲法が制定された。


 一連の「ドイツ革命」により、帝政が打倒され共和国が樹立されたが、ドイツの帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。これら極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀やクーデターの試みは、右から共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がワーマール共和国の政治的不安定さの一因となり、やがてナチスの台頭をゆるすことになる。

 ローザ・ルクセンブルクは、ポーランドに生まれ、十代後半にすでに共産主義の活動に加わっている。ドイツに移り、ドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党に関わるようになるが、やがて革命組織「スパルタクス団」を組織し「ドイツ共産党」の創設に至る。


 ドイツ革命の混乱の中、「1月蜂起」(スパルタクス団蜂起)を指導するが、政府側の旧国防軍残党やフライコール(義勇軍)との衝突の中で逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、革命的社会主義の殉教者として、革命の象徴的存在とされている。

 彼女の革命思想は「ルクセンブルク主義」とも呼ばれる。ローザ・ルクセンブルクは、ロシア革命を大筋で認め、ドイツ国内の社会民主党右派などの「修正主義」と徹底的に闘った。一方で、レーニンやトロツキーの「民主集中制」を「全体主義的」として批判する。


 さらにローザは、レーニンの「前衛党」論をも批判する。彼女は、資本蓄積が帝国主義を生むことを論じた主著「資本蓄積論」を著したマルクス経済学者でもあったが、経済の進展によって帝国主義の行き詰まりを招き、プロレタリアートの自発的な革命を招来すると考えた。一部の職業的革命家党員が、大多数の民衆を啓蒙して導くという「前衛党」を否定した。


◎ベルサイユ講和条約

*1919.6.28/ 「ベルサイユ講和条約」が調印される。


 ベルサイユ条約は、1919年6月28日にフランスのベルサイユで調印された、第1次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。第1次世界大戦の終結を受けて、1919年1月18日から、フランスのパリで世界各国の首脳が集まり「パリ講和会議」が開始され、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際協調体制構築についても討議された。

 パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約は、パリ郊外のベルサイユ宮殿で調印されたため「ベルサイユ条約」と呼ばれる。そして、この条約や関連諸講和条約によってもたらされた国際秩序を、「ベルサイユ体制」という。パリ講和会議は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの理想主義を基調に進められ、「国際連盟」の成立など、平和秩序の維持を希求したが、それを支える現実的な制度が、各国の意向で整えられず、その崩壊が第2次世界大戦へと流れ込んでいった。


 パリ講和会議は、参戦国でもあったが仲介役的立場の米大統領ウィルソンと、英首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーを中心として進められた。ウィルソンは、「十四ヵ条の平和原則」を発表し、「公正な講和」をアピールして、講和後の融和的な各国の関係を重視したが、直接に戦闘を交え甚大な被害を被った英仏両国は、ドイツに巨額の賠償や領土割譲を含め、懲罰的な負担を科する強硬意見であった。

 当初、ドイツやオーストリアの政体が不安定な状況もあり、まず連合国間で講和条件を話し合うことになった。戦勝五大国(英・仏・米・伊・日)の全権代表で構成される「十人委員会」で、重要課題は検討されることになったが、その後、情報遺漏問題もあって、実質は、英仏米三首脳にイタリアのオルランド首相を加えた「四人会議」が中心となった。


 フランスは、直接国境を接し、過去何度も戦争をしてきた隣国ドイツに対する不信感は強く、潜在的脅威を完全に取り除くべく、莫大な賠償や領土割譲など、強硬に懲罰的な条件を求めた。一方のアメリカは、理想主義者ウィルソンの意向もあり、「公正な講和」と「戦後の協調体制構築」で、行き過ぎた懲罰要求を緩和すべきとした。イギリスは、仏に立場は近いが、妥協的に対応した。

 講和案がまとめられると、ドイツ代表がパリ会議に招かれ通知された。ドイツ側は、国民からの大反発もあり、講和案を拒絶するが、ドイツ側からの提案を出し、若干の修正の後、再度講和案が提示された。連合国側は、返答期限を切り、受諾亡き場合は戦闘再開も辞せずという断固たる姿勢で臨んだため、ドイツはしぶしぶ講和案を受諾、ベルサイユ条約が締結されることになった。


 ベルサイユ条約は、米ウィルソンの提唱した「国際連盟」条項を包含するなど、平和的な協調体制理念が盛り込まれていたが、一方で仏クレマンソーを代表とする、ドイツに対する復讐懲罰的な苛酷要求との妥協の産物であった。その結果、国際連盟は米国で議会の反対で批准されないなど、具体的な平和維持機構としては機能せず、一方で、敗戦国ドイツへの苛酷な賠償負荷は、それに耐えきれないドイツ国民の疲弊を招き、やがてナチス台頭など、第2次大戦への導火線ともなった。


◎ワイマール憲法

*1919.7.31/ ドイツ国民議会が「ワイマール憲法」(ドイツ共和国憲法)を採択する。


 「ワイマール憲法」は、第1次世界大戦の敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、ドイツ帝国(帝政ドイツ)が崩壊した後に成立した「ワイマール共和国(ドイツ国)」において、ドイツ中部の都市ワイマールで開かれた「憲法制定議会」によって制定された。正式名称は「ドイツ国憲法」で、一般通称として「ワイマール憲法」と呼ばれることが多い。そして、この憲法下の政治体制を「ワイマール共和制」と呼ぶ。

 ワイマール憲法は、ドイツで初めて君主政を廃止し共和政を規定した憲法であり、男女の普通選挙による議会政治、国民の直接選挙で選ばれる大統領制にくわえ、世界で最初に労働者の団結権など社会権の保障を明記するなど、当時における、世界で最も民主的に進んだ憲法であるとされた。


 最新の民主的な憲法であったが、直接選挙でえらばれる大統領には、首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権、国防軍の統帥権など、旧ドイツ皇帝なみの強権が授与された。共和制成立期の戦後混乱期には、直前に引き起こされた「スパルタクス団の蜂起」など、各種勢力の反乱があり、その鎮圧に際して大統領の強権が必要であるとされた。

 憲法制定時には、首相指名には議会優位説があり、議会に首相の不信任兼も与えられていたので、エーベルト暫定大統領は、議会の支持を前提に首相を任命した。しかし、完全比例代表制により少数政党が乱立し、議会では意見が錯綜し、内閣も複数政党による連立内閣となることが一般的だった。そのため、首相指名には大統領の権限が優先されるようになり、ヒンデンブルク大統領は自らの指名だけによる「大統領内閣」を組織させることになる。


 最も民主的なワイマール憲法は、内乱も起るような諸勢力が分立する不安定な戦後下で、民主制を確立するような諸制度や国民意識の、まったく未成熟な土台の上に構築された。その矛盾をついて、大衆の支持と暴力で権力を掌握したナチス党が第一党となると、抗しきれなくなったヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒットラーを指名せざるを得なくなった。

 議会と内閣を掌握したヒトラ−が、全権委任法を成立させると、ワイマール憲法は事実上停止状態とされた。やがてヒトラーは、大統領と首相を兼ねる「総統(ヒューラー)」となり、「合法的」に独裁者となった。「最も民主的な憲法」の下で「最も過酷な独裁者」が誕生したという、歴史上の皮肉は、なぜ引き起こされたのか。


 ワイマール憲法は、ドイツ革命の混乱が尾を引くなか、共和国成立から半年足らずの短期間に制定された。条文そのものは民主制の理念が反映された優れたものであったが、その実効性を綿密に検討されたものでなかった。政権は、ワイマール連合と呼ばれる、社会民主党・中央党・ドイツ民主党の連立政府であり、それぞれの主張を網羅的にはめ込んだ寄せ集めの憲法でもあった。つまり、国民や政権の内部の分裂を、理念だけでまとめ上げようという側面を持っていたといえよう。

 民意を適正に反映させるという「完全比例代表制」は、結果として小党分散の不安定な議会運営をもたらし、内乱などの頻発する国情を治めていくために、大統領に付与された強権は、議会無視の政権運営を結果させた。このように、すぐれた理念の「民主的憲法」をささえるべき、国民を含めた「民主的制度」が確立していなかったのであった。


 よって、「ワイマール共和政」の政治状況は混乱の連続であり、その矛盾をついたナチス党などによって、ワイマール憲法自体を無効化され、ヒトラーによる独裁制へと移行していった。


(この年の出来事) 

*1919.1.18/ 第1次大戦の終結を受け、パリ講和会議が始まる。

*1919.2.6/ ワイマールでドイツ共和国国民会議開催。民主共和派が大勢をしめ、大統領にエーベルトを選出。

*1919.5.4/ 中国で、日本が引き継いだ旧ドイツ山東省権益の、中国への返還を要求する「五・四運動」が起こる。


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