【20th Century Chronicle 1918(t7)年】
◎ロシア・ソビエト連邦共和国 建国
*1918.1.23/ 露が国名を「ロシア・ソビエト連邦共和国」に変更。
*1918.1.28/ ソビエト大会で「労働者農民赤色陸軍および海軍(赤軍)」の創設が布告される。
*1918.3.3/ ソビエト政府が、独およびその同盟国と平和条約を締結。(プレスト=リトフスク条約)
*1918.7.10/ 第5回全露ソビエト大会で、「ソビエト憲法」が成立。プロレタリア独裁を明文化。
ロシア十月革命で権力奪取したボルシェビキは、「ロシア共産党」と改名し、国名も「ロシア・ソビエト連邦共和国」と改め、国家正規軍としての「赤軍」を創設し、そして「ソビエト憲法」を明文化するなど、着々と世界最初の「共産主義国家」の枠組みを整備していった。
しかし、旧ロシア帝国の衰退を招いた第1次世界大戦から、まず撤退する必要があった。ドイツを中心とする中央同盟国との交渉過程で、ウクライナの分離独立が始まり、そちらが先に中央同盟と講和をはたすという混乱もあり、トロツキーを代表とする交渉団は、大幅な譲歩をやむなくされた。
やっと成立にこぎつけた「プレスト=リトフスク条約」で、新生ロシア・ソビエトからは、フィンランド、バルト三国、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近などが、その影響下からはずれて独立することになった。さらに多額の賠償金を課され、国内の批判にさらされたレーニン政権は窮地に直面する。
条約によりソ連は大戦から離脱したが、協商国側など列強がこの機に乗じて干渉し、また国内反革命勢力の「白軍」なども、支援を受け勢いづいて、「ロシア内戦」という内乱状態となる。
南部ウラル地方のチャリャビンスクでは、ソビエトから武装解除を指令されたチェコ軍団が、些細なきっかけから反乱を起こし、反革命勢力や列強の後押しから、反乱は拡大した。さらに、チェコ軍救出を名目に、日本などがシベリア出兵をして干渉した。
ロシア中央部のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家は、この反乱を機に、反革命派による奪回をおそれて、一家全員が銃殺され、ここにロシアロマノフ家の血は完全に断たれることになった。
ロシア内戦によって疲弊したロシア経済はひっ迫し、レーニン政権は「戦時共産主義」という中央集中体制をとった。これは各地の農工業の崩壊を招き、数百万人の餓死者を出したという。戦時共産主義は、やむを得ない行き当たりばったりの政策であり、経済の混乱は、1921年より「ネップ(新経済政策)」が導入されるまで続いた。
◎米騒動
*1918.7.23/ 富山県の漁民の主婦らが米高騰に抗議、騒動はまたたく間に全国に波及し、米騒動が起きる。
富山県魚津町の魚津港には、他府県への米の輸送を行うため船が寄港しており、当時主食の米の高騰に苦しんでいた漁民の主婦などを中心に、米の積み出しを止めて、地域民に安く放出することを求めて、役所や米商人のところへ押し寄せた。廉価な米の放出を要求する訴えは、またたく間に富山県各地に拡大した。
もともと米どころの富山県だが、投機の対象となって米相場が暴騰し、その米は多くが県外に売却されていくようになった。地主や商人は、生産された米を米穀投機へ回すようになり、それを米穀問屋や商社が買い付け、売り惜しみ買い占めで、ますます米価は暴騰していった。
富山での暴動が新聞等て報じられると、大都市の消費地にも転移し、都市部のより多くの民衆集団によって、さらに大規模暴動となってゆき、米問屋や商社倉庫に大挙して押し寄せる「打ちこわし」の様相を帯びた。
神戸の鈴木商店は、当時、新興財閥として三井、三菱をしのぐ勢いであったが、大阪朝日新聞は、鈴木商店は米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃する記事を書いた。そのため鈴木商店本店は暴徒による焼き討ちにあったが、その記事はねつ造であり、鈴木商店が米を買い占めていた事実はないという。
「米騒動」は、労働者の団結権すらない時代で、明確な指揮者もない自然発生的な暴動であったが、約50日にわたって全国的に繰り広げられ、鎮圧には警察では足りず軍隊が投入され、検挙された人員は25,000人を超えるなど、多くの処分者を出した。
京都府、大阪府、兵庫県、奈良県など被差別部落が多い地域では、検挙された人員のかなりの割合を被差別部落民が占めた。これは、被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったという側面があるが、当局がこれを口実に弾圧を図ったということも考えられる。京都市の米騒動も、市内最大の被差別集落の柳原(現崇仁地区)から始まったとされる。
政府は、米穀投機が見られた前年から、「暴利取締令」を出し、買い占めや売り惜しみを禁止したが、その効果はなく、米騒動に至ることになった。今もよく使われる、「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)などの俗語は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来しているという。
米騒動に無策であった寺内内閣は、寺内が病気を理由に辞表を出し崩壊、後任に「原敬」が推薦され、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。原は爵位を持たない衆議院議員であったため、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
◎シベリア出兵
*1918.5.26/ チェリャビンスクでチェコ軍団が反乱。反革命勢力や列強の後押しで混乱する。
*1918.8.2/ 日本軍、大挙シベリア出兵。チェコ軍支援の名目で、背景には満州支配の野心。
1918年から1922年にかけて、英・仏・米・日本など帝国主義列強は、ロシア革命に対する軍事干渉としてロシアのシベリアに出兵した。1918年3月英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。東シベリアのチェリャビンスクで包囲されたチェコ軍団の救出がその名目だった。
レーニンの指導するボリシェヴィキ革命は、資本主義体制・議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する過激派として恐れられており、第1次世界大戦の最中に、連合国のロシアでボリシェヴィキに指導された革命が起こると、資本主義列強はロシアの反革命保守勢力(白軍)を支援して、革命政権の打倒しようと考えた。
オーストリア帝国の一部で同盟軍として動員されたチェコ兵は、連合国側にチェコの独立を持ち掛けられて寝返ったところ、些細なことから革命軍と戦闘が始まり、革命軍に包囲されてしまった。これを救出するというのが連合国側の名目だが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことにあった。
しかし、オムスクの反革命白軍コルチャーク軍が1919年3月に大敗すると、反革命支援の目的が完全に潰え、シベリア出兵の意味はなくなったため、英仏の干渉軍は撤退、アメリカも続いて撤退する。しかし、最大7万以上を派兵した日本軍は、1922年までシベリアに留まることになった。
日本軍は事後処理のためとして駐留を続けているとき、1920年2月に「ニコライエフスク事件」の悲劇が発生した。これは日本では尼港事件とも呼ばれ、現地の共産パルチザンが、アムール川の河口のニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊および日本人居留民約700名、その他現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した事件である。
日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。時の原敬内閣は、出兵目的を居留民保護とロシア過激派の勢力伸張の防止に変更し、駐兵を継続しようとする。しかし、そもそも戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃しており、日本国内でも批判が高まった。
アメリカなど諸外国からの日本への不信感も高まり、1922(t9)年10月に、やっと日本も撤兵することとなった。日本のシベリア出兵は、延べ3,500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、具体的な成果のまったくないまま終結した。撤兵を決定した加藤高明首相は後日、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
◎初の本格的政党内閣 政友会原敬首相が誕生
*1918.9.29/ 初の政党内閣、政友会原敬首相が誕生。「平民宰相」と呼ばれる。
米騒動で寺内内閣が退陣すると、元老たちはもはや官僚内閣では世論の支持を得ることができないと考え、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の「原敬」を後継の首相に推薦し、1918(大7)年9月29日、原内閣が成立した。原は爵位をもたず、藩閥政治家でもなく、最初の衆議院に議席をおく内閣総理大臣だったので、平民宰相と呼ばれた。しかも原内閣は、大半の全閣僚が立憲政友会会員からなる本格的「政党内閣」だったので、国民から歓迎された。
原敬首相は世論の追い風をうけて、指導力を発揮して党内の統制をはかり、教育施設の拡充・交通機関の整備・産業の振興・国防の充実という積極政策を推進した。さらに、1919(大8)年、選挙法を改正、選挙資格を直接国税3円以上にまで広げ、大選挙区制から小選挙区制に改め、翌年の総選挙で立憲政友会は衆議院の圧倒的多数の議席を制した。
「平民宰相」は原の代名詞ともなって国民から人気を集めたが、実はかつて、爵位授与を何度も得ようと動いた痕跡もある。しかし明治から大正になり時代の風潮も変ると、原自身が「平民政治家」であることを意識するようになり、政友会幹部として自信を深めるにつれて、爵位辞退を一貫して表明するようになったとのことである。
しかし、1920(大9)年の恐慌によって原内閣の積極政策は行き詰まった。そして、政友会の党勢拡張により、利権をめぐって汚職事件が発生するなど、多数党の腐敗と横暴を非難する声が盛んになり、納税資格を撤廃した「普通選挙」(男性のみ)の実現を要求する運動がしだいに活発になった。
議会では、護憲運動の闘士 尾崎行雄や犬養毅らが普選実施を政府に迫り、普選実施の主張は野党である憲政会や国民党のスローガンにも取り入れられていった。しかし、原首相と立憲政友会は、すぐに普通選挙を実施するのは時期尚早であるとして反対、社会運動にも冷淡な態度をとったため、原の平民宰相というイメージを損なわれていった。
1921(大10)年11月4日、原敬は、関西に向かうため東京駅に到着した直後、国鉄の転轍手に襲われ、ほぼ即死する(原敬暗殺事件)。犯人によると、原首相が政商や財閥中心の政治を行い一連の疑獄事件が起きたと考え、普通選挙法に反対したことなど、反動的な政治家と見なしたのが原因だという。
なお、選挙結果をふまえた衆議院第一党の党首が内閣総理大臣に指名されるのは、1924(大13)年の憲政会の「加藤高明」内閣からであるが、実際には選挙結果をみて元老西園寺公望が指名したのであった。憲法で議院内閣制が規定されてはいないが、以降は「憲政の常道」として、慣行的に議院内閣制が行われた。加藤は内閣を組織すると、選挙公約であった「普通選挙法」を成立させた。
◎ハプスブルク家帝国消滅
*1918.11.13/ オーストリア皇帝カール1世退位。ハプスブルク家帝国崩壊。
マルクス=エンゲルスによる「共産党宣言」は、「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が」として始まる。そして「旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる」と続けられる。その「神聖な討伐の同盟」の一端を担っていたのが、「神聖ローマ帝国」を継承する「オーストリア=ハンガリー帝国」であり、その最後の皇帝「カール1世」が、第1次大戦の敗戦を受け退位した。
ここに、中世以来、「ヨーロッパに徘徊した」ハプスブルグ家宗家の帝位は消滅した。ハプスブルク家はスイス地方の一諸侯に過ぎなかったが、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の君主に選出されることで、ヨーロッパにおける権威を継承した。神聖ローマ帝国は、古代ローマ帝国の皇位を継承する正統性を称え、ヨーロッパの盟主的な立場であった。
ヨーロッパ王朝の多くが、強大な武力で国家を築き支配することで、王朝を成立させてきたが、ハプスブルグ家にはそういうイメージが希薄で、まさしく「ヨーロッパに徘徊する妖怪」のごとく、婚姻関係で血族を広げることで、その勢力を拡大していった。皇帝カール5世のときに、スペインはじめ多くのヨーロッパに領地を広げ、その弟フェルディナント1世が神聖ローマ帝国を継承し、その子フェリペ2世がスペイン皇帝を受け継いだ。
大航海時代に新世界に乗出したスペインは、フェリペ2世がポルトガル王も兼ねて、南米の植民地を拡大し「日の沈まぬ帝国」を築いた。しかし「アルマダの海戦」で無敵艦隊がイギリスに破れたのを契機に、その勢力は下降をたどった。さらにオーストリア・ハプスブルグ家との繰り返された近親婚で、子孫に病弱者が相次ぎ、虚弱なカルロス2世で後継者が絶え、フランス・ブルボン家のルイ14世が、孫をフェリペ5世として引き継がせたため、「スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家)」は断絶した。
「オーストリア系ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)」は、その後、新興のプロシアの圧力などを受け、一時、ハプスブルク家の権威の根拠であった神聖ローマ帝国の帝位を失うなどしたが、マリア・テレジアの時に帝位を奪回した。マリア・テレジアもまた、ハプスブルグ家の専売特許とも言える婚姻政策を展開し、プロシアに対抗するためにフランスに接近、娘のマリー・アントアネットを仏ブルボン家ルイ16世に嫁がせたのも、その一貫であった。
19世紀初頭、神聖ローマ帝国は、フランス皇帝ナポレオン1世の攻勢の前に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位するが、オーストリア皇帝フランツ1世としては継続しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続する。そして、ナポレオン戦争終焉後のウィーン会議では、旧体制護持の神聖同盟の中核としてふるまった。
以後、何度もの戦争に敗れ、国力を低下させる中、オーストリア=ハンガリー帝国へ再編された。しかし多民族国家としての地域を抱える帝国は、民族対立の下で、1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されるサラエボ事件が発生し、それが第1次大戦を勃発させることになった。戦争では形勢不利の中、いくつもの民族が分離独立してゆき、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。
参考書籍「ハプスブルク家の女たち」 (講談社現代新書/江村洋著/1993年) http://nagisa20080402.blog27.fc2.com/blog-entry-253.html
(この年の出来事)
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第1次世界大戦が終わる。
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