2020年9月27日日曜日

【20C_t1 1917(t6)年】

 【20th Century Chronicle 1917(t6)年】


◎ロシア二月革命

*1917.3.15/ 帝政ロシアの首都ペテルグラードで「ロシア二月革命」が勃発、ニコライ2世が退位してロマノフ王朝滅亡。

*1917.7.21/ ケレンスキー内閣が成立する。

(注)現行の西暦表記はグレゴリオ暦にもとづくが、当時のロシアではユリウス暦(ロシア旧暦)が用いられており、現行暦より13日前にさかのぼる。よって、例えば新暦3月の出来事が「二月革命」などになる。


 日露戦争での苦戦が続く1905年1月、サンクトペテルブルクに発生した「血の日曜日事件」が、「ロシア第一革命」と呼ばれることがある。ロシア正教の一神父が指導したゼネラル・ストライキに続いて、サンクトペテルブルクでデモ行進があり、それにツァーリの軍隊が発砲し1,000人前後の死傷者が出た。

 組織化された革命事件ではなかったが、この事件を契機に革命運動が活発化し、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは水兵らの反乱も起った。皇帝ニコライ2世は改革を認めず保守的な体制維持を望んだが、首相に就任したストルイピンは、改革を図るとした。しかし、その前に反乱の徹底鎮圧を最優先し、一旦混乱は押さえつけられた。


 その後、改革の効果もみられないままストルイピンの暗殺、そして第1次世界大戦への参戦などで、社会の不満は残されたままであった。大戦での戦況も不利に展開し、ニコライ2世が前線へ向かうと、内政を任されたアレクサンドラ皇妃とラスプーチンの、恣意的な政務は不興をかこった。ラスプーチンは保守派ユスポフらに暗殺されたが、国政の立て直しはならず、ロマノフ王朝は末期的症状を呈した。

 国際婦人デーであった1917年3月4日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時ペトログラード)で、食料配給の改善を求めるデモが行われた。当初は穏健なものであったデモは、数日のうちに全市に広がり、要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していった。


 ニコライ2世は軍にデモの鎮圧を命じたが、鎮圧に向かった兵士たちが次々と反乱を起こし、労働者側についていった。労働者や兵士はペトログラード・ソビエト(労働者評議会)を結成し、一方で、ドゥーマ(議会)の議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。

 ペトログラード・ソビエトとドゥーマ臨時委員会は、革命の混乱過程で二重政権状態であったが、臨時委員会は臨時政府を設立し、ペトログラード・ソビエトを指導するメンシェビキも、この臨時政府を支持する方針を示した。臨時政府には、社会革命党(エスエル党)右派からケレンスキーが参加したものの、その中心は大半が自由主義者が占め、革命の性格は「ブルジョワ革命」の様相を示した。

 3月15日、臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟ミハイル大公へ皇位の移譲をめざしたが、これも拒否され、ここにロマノフ朝は崩壊した。(ロシア二月革命)


(追補)

 「二段階革命論」では、まずツァーリと封建領主による支配の封建制・絶対君主制を打ち破る「ブルジョア民主主義革命」が必要であり、その下で資本主義が発展した後に「プロレタリア社会主義革命」を行われる、というものであった。

 しかし実際には、自然発生的な暴動から「二月革命」が実現され、これがブルジョア革命だとされるが、その後の資本主義的発展をまたず、半年あまりで「十月革命」が起こった。


 本来なら、資本家との階級闘争として、成熟したプロレタリアートが革命に立ち上がるはずが、いまだ期の熟さないうちに、レーニン率いるボルシェビキが、厭戦気分の兵士や都市住民を糾合して一気に「ブルジョア臨時政府」を倒したわけで、これは「革命」などではなくて「クーデター」にすぎなかった。

 その後に成立した他地域での共産主義国家も、すべて封建制か植民地という資本制未発達の地域で達成されたもので、逆に、発達成熟した先進資本主義の地域で「プロレタリアート革命」が起こされた例は皆無である。これらの先進地域では、せいぜいが議会制を通じて改革を進める「社会民主主義」政党となる。


◎ロシア十月革命

*1917.11.7/ レーニンひきいるボリシェビキが、ケレンスキー臨時政府を倒し、ソビエト政権を樹立する。(ロシア十月革命)


 「二月革命」では、「臨時政府」と「ペトログラード・ソビエト(メンシェビキ主導)」との二重政権であり、対独戦争の続行と講和終戦での内部対立があった。二月革命勃発時、レーニンは亡命地スイスに居たが、「封印列車」で戦争相手のドイツ国内通行するという秘策で急遽帰国した。敵国ドイツも、ロシアの内部混乱を助長する意図で、レーニンの通過を許可した。

 レーニンは「四月テーゼ」を発表し、臨時政府をブルジョワ政権とし、支持しないこと。「祖国防衛」という名の戦争継続を拒否することなどを宣言し、ボルシェビキのリーダーとして復帰した。しかしケレンスキー主導の臨時政府は、レーニンは敵国ドイツのスパイとしてロシアに送られたと宣伝した。


 その後、兵士たちの反臨時政府の武装デモが起るが鎮圧され、扇動したとされたボリシェビキに対する弾圧が強まった。レーニンは一旦地下に潜ったが、軍の反乱などで弱体化した寄せ集めの臨時政府に対して、やがてレーニン率いるボルシェビキは、急速に支持を拡大し、ペトログラード・ソビエト内でも、メンシェビキを駆逐して主導権を握った。

 もとから暴力革命を主張するボルシェビキは、ソビエトで多数派を占めると、即時武装蜂起を主張し、ソビエト内に軍事革命委員会を作らせて武装蜂起の準備を進めた。軍事革命委員会の指令下でボリシェビキの軍隊「赤衛軍」は、1917年11月7日、ペトログラードの政府施設の占拠を開始し、翌日には、軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」とする宣言を発表した。翌未明には、臨時政府が置かれていたペトログラードの冬宮が制圧され臨時政府メンバーは逮捕された。


 十月革命では、二月革命で発足した立憲民主党(カデット)主導の臨時政府が倒され、臨時政府と並存していたボリシェビキ主導のソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へと権力が集中され、新政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」が設立された。

 ボルシェビキは旧体制時から憲法制定議会を要求していたため、政権奪取後、制定議会の議員を選ぶ普通選挙を実施した。しかし、ボルシェビキが第一党を確保できない結果に終わると、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させ、ここに「ボルシェビキ一党独裁」が成立する。そして翌年1月には「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立が宣言され、ボルシェビキも「ロシア共産党」と改名し、ロシアは、世界初の共産党一党独裁共産主義国家となった。


 共産主義国家の安定には、まだまだ日時を要した。内部的には「ロシア内戦」(1917年-1922年)が続き、資本主義列強は、共産主義国家阻止のため対ソ干渉戦争を仕掛けてきた。各地で旧軍の将校らが反革命の軍事行動を始め、これら雑多な反革命軍は「白軍」と総称された。ソビエト政府側は、軍事人民委員となったトロツキーの下で「赤軍」を創設して戦った。

 この内戦と干渉戦は、ボリシェビキの一党独裁を強めた。革命直後に創設された秘密警察のチェーカーは、自由に逮捕や処刑を行う権限を与えられた。レーニンに対する暗殺未遂事件が起こると、ソビエト政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。こんな状況下で、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、反革命側に奪還され再擁立される恐れが生じたため、一家7人とも銃殺されその血筋は断絶した。

ドキュメンタリー「ソ連の歴史」

 革命の流れが分かりやすく編集されたドキュメンタリー映画。第2回あたりまでが、上記に該当する。 https://www.youtube.com/watch?v=09awF4y1Xls


◎アラビアのロレンス

*1917.7.6/ 「アラビアのロレンス」率いるアラビア人部隊が、オスマン帝国軍要衝アカバを陥落させる。


 中東の老大国オスマン帝国では、国内での反乱とともに、トルコ人の民族主義が高まっていた。一方で被支配下のアラブ人にも民族主義が芽生えてきた。そんな中でオスマン帝国は、第1次世界大戦で、ドイツ帝国との同盟のもと中央同盟国に加わり中東戦線に参戦した。

 スエズ運河通行を脅かすドイツ・オスマン連合と対立するイギリスは、アラブ人を蜂起させてオスマン帝国を攪乱する計略を立てた。イギリスは、メッカの太守で名門ハーシム家の当主フサイン・イブン・アリーに目を付け、オスマン皇帝の権威に対抗させようとした。


 1915年、英国はフサインと「フサイン=マクマホン協定」という書簡を交わし、三国協商側への協力と引き換えに、アラブ人国家の建国を黙認するとしていた。しかし一方で、翌1916年には、英仏は、「サイクス=ピコ協定」というオスマン帝国分割の秘密協定を結んだ。さらに1917年には、ユダヤ系の資金をあてにして、「バルフォア宣言」でユダヤ人国家の建国を認める約束を交わす。これらは「イギリスの三枚舌政策」として、現在の中東の混乱の原因となったと批判される。

 1916年6月、太守フサイン・イブン・アリーは、アラビア半島西部に、ヒジャーズ王国として独立を宣言した。10月、イギリスは、アラブ諸部族の支援のため、「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンスを派遣した。情報将校としての任務を負ったロレンスは、フサインの3男ファイサル・イブン・フサインなどアラブの指導者らの信頼を得て、彼らの戦闘をイギリスの対オスマン帝国戦略に沿うよう誘導した。


 ロレンスは、強大なオスマン軍と正面から戦うのではなくゲリラ戦を展開、紅海に沿うヒジャーズ鉄道を各地で破壊し、オスマン軍を攪乱しその兵力を分散させる活動で、イギリス軍の作戦に寄与した。アラブ人のラクダ騎兵らで組織する急襲部隊は、砂漠地帯の地形を知り尽くして神出鬼没に行動し、ゲリラ戦を勇猛果敢に戦った。

 1917年7月、ロレンスは、アラブ人の非正規軍やベドウィンの指導者アウダ・イブ・ターイー指揮下の部隊との共同作戦を組織し、アカバ湾奥の港町アカバを攻撃する。紅海最奥に位置するアカバは、オスマン軍が防衛拠点としていた港町で、イギリス軍側としても補給拠点として重要な位置にあった。


 アカバ防衛の砲門は港に向けられていたため、後方の陸側は無防備であった。ロレンスらは、40名ほどの手勢で本拠を出て、砂漠を横断してアカバへ向かった。途中、反乱兵や諸部族を併合しながら数千人にまで拡大し、1917年7月6日、背部の陸からの攻撃でアカバを陥落させた。

 翌年1918年には、ロレンスほかのイギリス将校が入りこんだアラブ軍は、ついに要衝ダマクスクを落し、オスマン帝国の勢力はアラビア半島から一掃された。しかし、サイクス=ピコ協定の秘密協定などで、一部のアラブは、シリア・ヨルダン・レバノン・イラクなどに分割統治され、フサインらハーシム家は、アラビア半島西部のヒジャーズ王国の独立を認められるにとどまり、アラブ統一国の夢は成らなかった。


 映画「アラビアのロレンス」(1962/英)では、自身が尽力した「アラブの大義」(アラビア統一国家)が成らず、失意のうちにアラブから去るロレンスを描くが、英軍情報将校としてのロレンスに課された任務は、アラブ兵を誘導しオスマン軍を後方攪乱することであり、アラビアの独立は英国の意図には入っていなかった。

 ロレンスは忠実に期待された以上の任務を遂行したが、サイクス=ピコ秘密協定の内容も事前に知らされており、どこまで「アラブの大義」の実現を期待していたかは疑問である。ただし、必要以上にアラブ人に入りこみ、次第にアラブ人の期待に促されるようになったことは考えられる。とはいえ、ロレンスがアラビアから離れる時期には、すでにアラブ側からもイギリス側からも必要とされない状況と変わっていたのであった。

映画「アラビアのロレンス」(1962年/デヴィッド・リーン監督)

https://www.youtube.com/watch?v=-tZEfARQNbU


(追補)

 アラブのように、砂漠を遊牧部族が自在に行き来している地域には、近代国民国家なんてのは有り得ない。オスマン帝国のような封建的ボロ国家で、緩やかな支配で、僅かな税で自由にやっていけるのが最適だった。

 そこへ帝国主義だの民族主義だのが入り込んできて、部族族長たちは何していいのか分からなくなった。さらにサイクス=ピコ協定みたいな、架空の国境線を引いてこの中でやれ、などと言われたら、急に檻に入れられた野生動物みたいなもんだ。ライオンと虎が同じ檻に入れられたら、そら噛み合いもするわな(笑)


 結局、サダム・フセインやアサド父子みたいな強権的独裁者が、無理やり檻を管理するしかないわけだ。そこへ「アラブの春」で、いきなり野に放たれた民衆は、どうしていいか分からないし、一部が本格的に野生化して、ISISみたいになったわけだ。

 そこへイスラエルというユダヤ人国家が、ハリネズミのように入り込み、周辺では世界のエネルギーをまかなう石油がワンサカ噴出、おかしくならない方がおかしい。


◎マタ・ハリ

*1917.10.15/ フランス、パリにおいて、二重スパイとして活躍、ファム・ファタール(魔性の女)とも呼ばれたマタ・ハリが、ドイツ軍スパイとしてフランス軍によって処刑さる。


 マタ・ハリ(Mata Hari)は、オランダ生まれで本名マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレと言い、フランスのパリを中心に、「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じ、ダンサー兼ストリッパーとして活躍した。しかし、第1次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。

 その妖艶な美貌とオリエンタルな芸風(ジャワ島からやって来た王女というふれ込み)で、その死後にはさまざまな尾ひれがつき、世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となった。マタ・ハリは、多数のフランス軍将校およびドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、いわゆる二重スパイだったとされる。


 ドイツの在外武官の暗号通信がフランスによって傍受解読され、マタ・ハリがスパイ活動をしていると判明し、逮捕される原因となった。しかしマタ・ハリの諜報活動が具体的にどのようなものだったかは、はっきりとされていない。彼女は低級レベルでの諜報要員であって、少なくとも、決定的な重要情報をもたらしたという証拠は見つけられていない。

 当時の戦況はフランスに不利に展開しており、フランスの政府や軍部にとっては、軍事上の失敗を何でもマタ・ハリの活動に結びつけるのが、好都合でもあった。彼女は有罪となり、サンラザール刑務所にて、10月15日に銃殺刑に処せられた。


 マタ・ハリの裁判、処刑の様子には、さまざまな逸話が語られる。たとえば、

1.処刑を免れるため、妊娠していると申告することを勧められたが、本人が拒否した。

2.処刑の際、銃殺隊はマタ・ハリの美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかった。

3.彼女は銃殺の前兵士たちにキスを投げた、また銃殺寸前にロング・コートの前をはだけ、全裸で銃殺された。

4.処刑の際、目隠しや木に縛りつけられることを拒絶し、泰然自若として銃の前に立った。

などなど。


 「魔性の女(ファム・ファタール)」というイメージとともに、これらの逸話は広く喧伝された。以後、何度も映画化され、さらにそれらは具体的なエピソードとして定着していったと考えられる。なかでも、マタ・ハリの名前を広く知られるようにした映画には、「マタ・ハリ」(1931年/米 グレタ・ガルボ主演)が挙げられる。

 また、のちの中国戦線で日本軍の諜報活動に従事し、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子も存在する。川島芳子は旧清朝の皇族であり、日本人の養子として育てられた。その活動の内容はつまびらかではないが、中華民国に逮捕されて、同じく銃殺されたとされている。


(この年の出来事) 

*1917.2.1/ ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。

*1917.4.6/ アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第1次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。

*1917.9.12/ 大蔵省令で事実上の金輸出を禁止する。金解禁は1930年になる。

*1917.11.2/ イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。

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