2020年9月26日土曜日

【20C_t1 1916(t5)年】

 【20th Century Chronicle 1916(t5)年】


◎吉野作蔵 民本主義

*1916.1.-/ 吉野作蔵、大正デモクラシーの支柱、民本主義を説く。


 東京帝国大学教授吉野作造は、1916(大5)年「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(中央公論1月号)という論文を発表、民本主義を説いた。すでに1912(大1)年には、美濃部達吉が天皇機関説を発表しており、同じ帝大教授で天皇主権説を唱える上杉慎吉らとの間で激しい論争が展開された。

 「主権」という概念は、法理論的には「国家の統治権としての主権」と「国家意思の最高決定権としての主権」とに分けられる。美濃部らの「天皇機関説」は後者の主権だけが国民にあるというものであったが、誤解され批判にさらされた。


 そこで吉野は「民本主義」として、主権の所在を問わないという建前をとった。「democracy」を「民主主義」と訳すると「主権在民」とされ、当時の大日本帝国憲法における「天皇主権」と対立することになるのを避けたためであった。

 吉野作造は、主権はたとえ天皇(君主)にあっても、国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし(民本主義)と主張した。つまり、主権者はすべからく一般人民の利福意向を重んずべきであり、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にある」ので「政策決定は民意に基づくべき」として、実質的な民主的政治をとなえた。


 吉野作造の民本主義は、大正デモクラシーを大いに高揚させる一因となった。ただし、吉野の民本主義論の主眼は、いかにして国民が政治主体となるのではなく、いかに善き執政者に政治をゆだねるかという点にあり、悪しき為政者だとどうなるかは、のちの軍国主義の時代を見れば明らかである。同時に、大正デモクラシーの限界は、「民主主義の空気」だけに浮かれた点にあったと言える。


◎ダダイズム宣言

*1916.2.8/ トリスタン・ツァラらが、チューリッヒで「ダダイズム」の第一声を上げる。


 ダダの運動は、チューリッヒの文学キャバレー「ボルテール」に集まって、ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラら多数の芸術家によって始められた。「ダダ」という名称は、1916年にトリスタン・ツァラが無意味な言葉から命名したが、ツァラの「ダダ宣言」は世界中の芸術家の賛同を得て、ベルリン、ニューヨーク、パリなど、世界中の大都市に同時多発的に飛び火し、その後の文化芸術に多くの影響を与えた。

 「ダダイズム」は、芸術思想・芸術運動として芸術家たちによって展開されたが、第1次世界対戦を引き起こした既成の価値体系への反発と、その文化体系の無力性への虚無が潜んでいる。自己破壊へ追いやった近代科学技術の合理主義や、ブルジョア社会に安住してしまった芸術の閉塞状況に対しての否定であり、反芸術的な芸術破壊運動でもあった。



 ダダイズムが目指すものは、既成の芸術の様々な意味や価値の解体であり、芸術至上主義的価値観の破壊であった。たとえば、当時の機械技術で量産される「レディー・メイド」複製製品を、そのままタイトルを付けて展示し「作品」としてしまう。

 ダダイズム芸術運動は、偶然性やハプニングを導入し、コラージュ、タイポグラフィなどの手法を駆使して、既存芸術の「意味」や「技巧」を否定し、「作品」という概念まで破壊しようとする。詩人のトリスタン・ツァラは、新聞をバラバラに切って、適当に並べて、意味も文脈も持たない「詩」とした。画家のハンス・アルプは、自分のデッサンを破き床に投げ捨て、そこに偶然出来上がったパターンを「作品」とした。


 このような前衛的な試みは、それ自体斬新であるが、新たな価値の創造を拒否する故に、運動としては発散して消えてゆく傾向がつよい。ダダとは直接関係ないが、日本の俳句で「自由律俳句」という運動があった。五七五という定型や季題に縛られないで、内的な韻律のみを重視するという自由俳句運動であった。

 定型俳句の革新という意志が共有されている間は、本来性からの逸脱は防がれるが、まったくの部外者が入ってくると、単に短ければ良いのかと錯覚し、最後には「あ」の一字だけの作品になってしまった、などという笑い話もある。また、幼児が画用紙にクレヨンで落書きしたものを、自然な作品としてもて囃すむきもある。それをもって、「芸術の破壊」というダダの目的が達成されたと言えるはずもない。


 その後、ツァラはアンドレ・ブルトンに招聘されてパリに活動の場を移したが、両者の対立が先鋭化し、ダダから離脱したブルトンらによる「シュルレアリスム」(シュルレアリスム宣言)が開始され、ダダイズムは勢いを失っていった。「シュルレアリスム」は、ジークムント・フロイトの精神分析によって「無意識界」の存在が提起され、それまで認識されていなかった世界を探索しようというものであった。

 「意識世界」に覆い隠された世界を見るためには、意識を混乱させて取り除く必要がある。そのために、オートマティスム(自動筆記)やデペイズマン、コラージュなど、偶然性を利用し主観的意識を排除する技法や手法が開発された。また、夢の世界の記述であったり、催眠下で無意識を導き出すなど、様々な工夫がなされた。特定の手法や対象世界をもたなかったダダイズムは、独自の手法を持ち無意識界の探求という理論武装をしたシュルレアリスムに、発展的に解消されていったとも考えられる。


◎怪僧ラスプーチン 暗殺

*1916.12.30/ ロシア宮廷の黒幕、怪僧ラスプーチンが暗殺される。


 ユリウス暦1916年12月17日(1916.12.30)、怪僧と呼ばれたラスプーチンは、大貴族で女装趣味というユスポフらによって暗殺された。暗殺犯には、皇族のドミトリー大公などもおり、警察は暗殺現場モイカ宮殿に立ち入ることすら出来ず、満足な捜査は行われなかった。さらに、その後成立するソビエト政権下で、大半の資料が破棄消失したため、後のさまざまな逸話や都市伝説的な噂が拡がる一因ともなった。

 グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは、シベリアの寒村に生まれたが、サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、病気治療などの奇蹟を施して「神の人」とも呼ばれるようになった。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、やがてロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の宮中にも出入りするようになった。


 ニコライ2世の皇太子アレクセイは、当時原因が究明されていない血友病患者であり、ラスプーチンがその治療にあたった。取り巻き医師たちは懐疑的だったが、彼の祈祷によりアレクセイの症状が改善したという。この治癒により、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を得て、やがて宮中深く入り込み、アレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。

 宮廷女性たちへの人気には、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が流布され、彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が彼の「淫乱な生活」にあきれ、実態を報告したともされる。しかし、皇帝夫妻に重用されるラスプーチンに対し、取り巻きの貴族や宮廷官吏たちが嫉妬心を抱き、意図的に流した噂だという説もある。現に、宮廷や政界、宗教界にも、ラスプーチンの敵は多く、暗殺の恐怖にも晒されていた。


 ラスプーチンが、実際に政治に影響力を持つようになったのは、第1次大戦勃発前の1914年中頃からだといわれる。第2次バルカン戦争では、ニコライ2世は介入しようとするが、この際にラスプーチンが反対し、汎スラブ主義を信奉する一派と対立することになった。さらに第1次世界大戦直前には、ドイツ帝国との戦争に反対した。つまり、彼は一貫してロシアの拡張主義に反対し、それを、ロマノフ王朝と君主制を守るためだと主張している。それはまた、大戦末期のロシア革命やニコライ2世一家の行く末を予言したともいわれる。

 しかし、ラスプーチンの提言は受け入れられず、ニコライ2世はロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦端を開いた。戦線が劣勢になると、皇帝自ら前線で指揮を執ることになり、内政は皇后アレクサンドラと、その相談役のラスプーチンにゆだねられた。両人の主導する内政は、気に入らない人物を排除するなど偏った失政が目立った。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇族の権威が失墜するなか、保守派は帝政を救うためにラスプーチンを暗殺することになる。


 英ビクトリア女王に遡るとされる血友病の遺伝子が、ヨーロッパの各王朝の婚姻ネットワークを通じて拡散され、それがロマノフ王朝ニコライ2世の皇太子アレクセイにまで飛び火していたことは、それ自体興味深い王朝裏面史でもある。そのアレクセイの治療に関わったラスプーチンが、ビクトリア女王の血をひいたドイツ系の皇妃アレクサンドラの寵愛を得て、怪僧としてロマノフ朝で暗躍したという物語は、壮大なドラマの素材と成り易い。

 それに、素性不明でいくつもの奇蹟を起こして盛名を得たラスプーチンは、その怪異な容貌とも相まって、幾多の「ラスプーチン伝説」とでもいうべき噂を形成している。青酸カリを盛られた食事を平らげ、何発もの銃弾を撃ち込まれても目を見開き、顔面に銃弾を撃ち込まれ、凍り付いた大河に投げ込まれても、まだ遺体からは生きていた兆候が見られたという。


 そのような異常な生命力に加えて、巨根にまつわる数々の貴婦人を篭絡したという強大な精力伝説など、その噂にはこと欠かない。サンクトペテルブルクのエロティカ博物館なるところには、「ラスプーチンの男根」とされるアルコール漬標本が保存展示されているという。かつて日本の各地に存在した「〇〇秘宝館」みたいなところだろうし、巨根なるものも、せいぜいが大根か芋であろうと思われる。


(この年の出来事) 

*1916.5.9/ 英仏露が、秘密協定「サイクス・ピコ協定」で、オスマン・トルコのアラブ地域を勝手に分割。

*1916.109/ 寺内内閣が成立する。政党の意向を無視して元老会の意向で成立したので「非立憲内閣」と呼ばれた。寺内の通天閣のビリケン像に似た容貌から「非立憲(びりけん)」ともじられた。

*1916.6.5/ アラブ民族の独立をめざし、メッカの太守フサイン(フサイン・イブン・アリー)が、英軍情報将校 トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の支援の下で立上る。


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