2020年10月5日月曜日

【20C_t1 1920(t9)年】

 【20th Century Chronicle 1920(t9)年】


◎米 禁酒法施行

*1920.1.16/ アメリカで禁酒法が施行される。


 アメリカの禁酒法は、「合衆国憲法修正第18条」と「国家禁酒法(ボルステッド法)」の組み合わせで実効性を持ち、二つを合わせて「禁酒法」と通称される。先行したボルステッド法に続いて、1920年1月16日に修正第18条が施行され、名実ともに憲法に基づいた禁酒法時代が始まった。禁酒法は、憲法修正条項によって1933年に廃止されるまで、13年強にわたって、アメリカ社会に大きな影響を及ぼした。

 この禁酒法は、いわゆる「ザル法」であったとされる。ボルステッド法では、酒類の製造販売が禁止されたが、個人の自宅での飲酒までは禁止されなかったし、ワインの自家醸造は事実上禁止されなかった。しかも隣接するカナダなどからの持込なども、「個人用」ならば制限されなかった。


 元来「ピューリタン(清教徒)」主義の影響下にあった合衆国では、アルコールに対する強い批判があり、「健全な家庭生活」のために制定された禁酒法であった。しかし、ザル法ゆえの穴を狙って、闇での密造・密輸酒の巨大な市場が拡大し、そこを牛耳ったマフィアやギャングの資金源となって、闇社会が大きな力を持つ社会が成立した。健全な家庭生活を維持するために、「凶悪なる闇社会」が存在するという、皮肉な現象が実現したわけである。

 かくして、禁酒法時代を彩るスターたちが登場した。シカゴ・ギャングのボス、アル・カポネらや、それを追い詰める「アンタッチャブル」のエリオット・ネス、さらには、マフィアと組んで酒の密輸入で財を築いたジョセフ・P・ケネディは、その財を投入して、息子ジョン・F・ケネディを大統領にまで仕立て上げたというエピソードも存在する。


 「ジ・アンタッチャブル」は、エリオット・ネスへのインタビューなどから書かれた伝記であり、それを元にテレビドラマや映画が製作されてネスは有名になった。エリオット・ネスの職掌は、アメリカ財務省「酒類取締局捜査官」であり、いわば税務署の酒税担当みたいなものであったが、禁酒法の成立によって取締官としての役割が際立つことになった。そして、よく勘違いされる「連邦捜査局(FBI)」は、まだ存在していなかった。

 当時の酒類取締局員は給料が低く、密造酒で膨大な利益を得たギャングたちは、捜査員を簡単に買収した。それに対抗してネスは、信頼に足るチームを作るため、当初は50名のものを、11名にまで選りすぐってチームをつくった。ここから「アンタッチャブル=手出し出来ない者、買収できない者」と呼ばれるようになった。


 連邦政府はカポネ摘発のため、二方面作戦を取った。すなわち、闇ビジネスによる「脱税」と、禁酒法違反の「酒の密造販売」であり、ネスは後者に関する特別捜査班を統括した。カポネは、22件の脱税、5,000件のボルステッド法違反で告発されたが、結局は脱税によって懲役11年刑が宣告され収監され命運が尽きる。ネスの集めた5,000件の証拠は最終的にすべて却下され、罪状に無関係だったという。

 エリオット・ネスの伝記「The Untouchables」は、ネスの口述を中心に書かれたため、自身を美化した記述が多く含まれる。その後、ジョン・エドガー・フーバー長官によって「FBI(連邦捜査局)」が成立すると、ネスはFBIに入局を希望するも、フーバー長官に阻まれた。第一線を退いた後は、酒場に入り浸たり、かつての武勇伝を自慢するばかりで、皮肉にもアルコール依存症になっていたと言われる。


 禁酒法時代は、さまざまな逸話に事欠かない。JFKの父親ジョセフ・P・ケネディは、禁酒法時代にマフィアと組んで酒の密輸で荒稼ぎした。それらの豊かな資金を活用して、自ら政界に打って出て英国大使にまでなるが、ナチスを称揚するような失言で政治生命を絶たれる。

 戦後も、膨大な資金を利用して、自らの子供を政界に進出させ、ジョン・F・ケネディを第35代アメリカ合衆国大統領に就任させることに成功した。汚れた金をロンダリングするジョセフの手法は、映画「ゴッドファーザー」で、2代目マイケルが、マフィア稼業のニューヨークを離れて、ラスベガスで実業に乗り出す様子などに反映されている。


「グレート・ギャツビー」(F・スコット・フィッツジェラルド原作/村上春樹翻訳) 正体不明の若き富豪ギャツビーは、禁酒法時代に酒の密輸で財を築いたとされる。


◎尼港事件

*1920.3.12/ 北部樺太の対岸ニコライエフスクで、日本の守備隊が、包囲していたロシアのパルチザン部隊に奇襲攻撃をかけたが失敗、全滅させられる。

*1920.5.24/ 日本軍支援部隊の反抗が始まり出すと、パルチザン部隊はニコライエフスクを焦土化し、日本人を含む住民を惨殺して退却をはじめた。


 「尼港事件」は、ロシア革命に続く内戦の混乱のなか、北樺太の対岸で、アムール川の河口にある「ニコラエフスク(尼港)」で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。反革命のコルチャーク政権が崩壊し、求心力を失った白軍勢力に期待できなくなったあと、日本人居留民を守るための日本守備隊は総勢400名弱、それを約4,000人の共産パルチザン(民兵)軍が包囲する事態に至った。

 ニコラエフスク港は冬季に凍結し、電話線や無線も遮断され、完全にニコライエフスクは孤立した。パルチザン部隊との交渉の結果、住民の生命資産の保護や投降白軍の無条件処刑の禁止などの条件を約束したかに見えたが、いざ開城となるとパルチザン軍は、無統制な略奪・処刑を繰り返した。パルチザン軍は、ロシア人を中心に、朝鮮人や中国人を寄集めた急造部隊で、ロシアソビエトの赤軍の指揮下にあるとはいえ、満足に統制されない土着野盗群のようなものであったと思われる。


 さらにパルチザン軍は、日本軍守備隊に武装解除・武器引渡を要求したため、圧倒的な不利な状況の下、3月12日、日本軍守備隊は奇襲決起する。日本軍守備隊は、パルチザン軍の幾つかの拠点を襲うが、やがて押し返され、2日にわたる市街戦の結果、完全に殲滅された。パルチザン軍は、人種老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。その内には、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含み、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名、ほぼ皆殺しにされたという。

 尼港事件の始まりは、アムール川下流地帯をソビエト権力が奪回するために、トリャピーツィンを指揮官として、共産パルチザン部隊が派遣されことによる。トリャピーツィンは、周辺の朝鮮人パルチザンや中国人らをも糾合し、4,000人近くの大部隊を編成した。そのような流れの中で、ニコライエフスク包囲戦となり、現地住民らにとって悲劇的な結末を迎えた。


 トリャピーツィンらは、ロシア革命で成立したボリシェビキ政権の正規軍ではなく、また直接その指揮系統下に置かれた部隊でもなく、トリャピーツィンら数名の現場指揮官に率いられた寄集めゲリラ部隊でしかなかった。ニコライエフスクの惨状が、ハバロフスクの駐留日本軍部隊や本土日本軍に伝わるとともに、支援部隊が編成された。5月24日、本格的な日本軍支援部隊の反抗が始まり出すと、トリャピーツィンらはニコライエフスクを焦土化し、日本人を含む住民を惨殺して退却をはじめた。

 ハバロフスクのソビエト革命委員会も、さすがにトリャピーツィンらの残虐行為を問題視し始め、反トリャピーツィングループに捕らえられたトリャピーツィンら指導部は、人民裁判により銃殺刑に処せられた。


 この「尼港事件」は、ロシア極東における一つの地域的事件に過ぎないが、全体像は、ロシア革命における内乱状態と、反革命支援を名目にシベリア出兵した日本軍の領土的欲望との、複雑な背景の下で引き起こされた悲劇として把握されなければならない。


◎シベリア出兵-2

*1920.3.31/ 日本政府、シベリア出兵の基本方針を閣議決定。シベリア政情安定まで撤兵せず、と声明を発表。


 ロシア革命後の内戦中、1918年から1922年にかけて、連合国(日・米・英・仏・伊など)が、革命軍の捕囚となった旧ロシア軍チェコ人軍団を救出する名目で「シベリア出兵」した。このチェコ人軍団は、オーストリア=ハンガリー帝国でのチェコ独立派チェコ人たちを、旧ロシア帝国軍がチェコ独立支援名目で取り込んだものであり、革命側にとっては反革命軍団でもあった。

 当然、連合国側は、ロシア革命に対する干渉戦争の一つとして派兵したもので、捕獲されていたチェコ軍団が反乱蜂起したのを契機に出兵した。英仏は、ロシア帝国が革命で離脱したため、ヨーロッパ西部戦線での対独戦争で精一杯となった。そのため、帝政ロシアの復活期待も含めて、日米を巻き込んでロシア内戦への反革命干渉を企図した。


 シベリア派兵は、アジア太平洋側からの日米が中心となり、とりわけ日本の派兵数は累計7万を超え、しかもチェコ人救出が終わり他国が撤兵した後も、最も長期に派兵駐留し続けた。その狙いは、旧ロシア帝国時代の権益の保全のほか、満州などへの領土的野心も含まれていた。

 曖昧な目的での長期の派兵と戦線の泥沼化は、兵士の厭戦気分をあおり士気も低下した。さらに1921年のワシントン軍縮会議などで、日本の領土的野心も非難されるなか、1922年加藤友三郎内閣は撤兵を決定した。そのあとの首相となる加藤高明は、シベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評した。


 日本陸軍は、当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェビキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たるパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。最終目的地は不明で、進軍占領したあとどうするのかも曖昧なまま、全軍兵士の士気は低下する一方であった。

 シベリア極寒の地で、地形を知り尽くしたゲリラ兵が、間歇的に襲撃を繰り返してくるという状況下で、派兵軍は難渋を極めた。対ゲリラ戦では、パルチザン・ゲリラ兵が潜む村落を、住民丸ごと焼き払うような惨劇も頻発した。当然ながら、逆に日本側の手薄な地域では、「尼港事件」のように日本人居留民も巻き込んだ悲劇も起った。

 局地的な出来事をとらえて、どちらがどちらと言えるような戦局ではなかった。結果として言えることは、シベリア派兵は、多くの犠牲を出しながら、ほとんど何も得るところがなかったということであった。そして、日本の中枢部では、その責任を誰も取らなかった。


(この年の出来事)

*1920.1.13/ 森戸辰雄東京帝大助教授が、「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したため休職処分、その後、起訴され失職するとなる(森戸事件)。

*1920.11.21/ アイルランド、ダブリンで、英軍部隊がIRA(アイルランド共和国軍)に報復。フットボール場の観衆に無差別銃撃。

*1920.12.-/ 皇太子裕仁親王(昭和天皇)の妃に内定の久邇宮良子女王(香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老山縣有朋らが女王の婚約辞退を迫る(宮中某重大事件)。

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