【20th Century Chronicle 1921(t10)年】
◎ヒトラー NSDPA(ナチ党)党首に
*1921.7.29/ アドルフ・ヒトラーがNSDPA(国家社会主義ドイツ労働者党/ナチ党)の党首に就任。規約を改正して党の無制限全権を握る。
*1921.11.4/ ヒトラーが「突撃隊(SA)」と命名したナチスの実力部隊が、共産主義者と大乱闘。
オーストリア=ハンガリー帝国に生まれたアドルフ・ヒトラーは、のちにドイツ国籍を獲得して、第1次世界大戦に義勇軍伝令兵として参加した。西部戦線で毒ガス攻撃を受けて障害を受けたヒトラーは、収容された野戦病院でドイツの降伏を知り、大きな精神的ダメージを受けた。
戦後も軍属として、新興政党などの諜報に従事する中、その諜報対象であった「ドイツ労働者党」(DAP)の反ユダヤ主義、反資本主義に惹かれて入党する。天才的な演説で民衆を引き込む才能を見込まれたヒトラーは、すぐに党幹部となるとともに、党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP/ナチスは蔑称)と改名させる。
1921年7月29日、党内で分派闘争が起きると、それに乗じて党執行部のクーデターを引き起こし、ヒトラーが第一議長に指名された。彼は、唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求し、周囲からは「Führer」(フューラー/指導者)と呼ばれ始めた。
ヒトラーは、ドイツ革命中に共産主義者の排除などで功績のあった民兵組織フライコール(ドイツ義勇軍)に影響力をもつエルンスト・レーム大尉らによって「突撃隊(SA)」を組織させ、実力行使で党勢を拡張していった。
突撃隊は「ミュンヘン一揆」での蜂起失敗などをへて、街頭闘争や政敵弾圧などに力を発揮したが、ヒトラー・ナチスにとっては絶対服従的な組織ではなく、その後、ヒトラー直属の「親衛隊(SS)」によって、レームなど幹部が粛清され(長いナイフの夜)、突撃隊も親衛隊の配下に改組された。
ドイツ革命の時期には、多数の政党が乱立対立し、しばしば実力行使で党勢拡張をはかった。政党の集会や演説会の警備を名目に、各党は準軍隊組織を抱え、他党の政治活動の妨害などで衝突することが多かった。ヒトラー・ナチスは、元軍人や義勇軍兵士を「突撃隊」としてかき集め、最も有効に活用したと言える。
「ヒトラー演説 - 熱狂の真実」 (中公新書) 2014/高田博行(著)
映画「独裁者 "The great dictator"」1940年/チャールズ・チャップリン https://www.youtube.com/watch?v=78bYriDPUww
◎平民首相原敬 暗殺
*1921.11.4/ 「平民首相」原敬が刺殺される(65歳)
「平民宰相」とうたわれた「原敬」は、1921(大10)年11月4日、京都の政友会の会合に参加するため、東京駅で改札口へ向かっていたところ、大塚駅職員だった中岡艮一によって短刀で刺殺された。中野は右翼思想に影響を受けていたが、明確な思想背景は不明である。
中岡の裁判は異例の速さで進められ無期懲役の判決を受けるが、当時の調書などの記録がほとんど残されていないなど、その動機の解明も曖昧なままである。中岡は収監後も、3度の大赦を経て、早くも13年後には釈放されるなど、残された疑問が多い。
思想背景がうすいためか、原敬首相暗殺事件は、伊藤博文、犬養毅、高橋是清、濱口雄幸などの重鎮暗殺事件に比べると、取り上げられることが少ない。そしてまた原敬自身、最初の本格政党内閣の首相とか平民宰相などとしては、あまりに著名であるが、意外にもその政治的業績が語られることは少ない。
原敬は、安政3年(1856年)、盛岡藩士の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれるが、生家は祖父が家老職にあったほどの家柄であった。戸主は兵役免除される規定があったため、20歳の時、原敬は分家して戸主となり、平民籍に編入された。
維新当初の混乱期もあって、各種の学校に入退校を繰り返しながら、新聞の翻訳や論文の記述で頭角をあらわし、外務省に取り立てられると、陸奥宗光の目にとまり、陸奥外相の下で外務次官を務める。相性が悪かった大隈重信が外相となると、外務省に見切りをつけ、やがて伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原はこれに入党し幹事長となった。
米騒動で寺内内閣が倒れると、政友会の党首を務める原敬が、後継首班として指名された。こうして、1918(大7)年に成立した原内閣は、日本初の本格的「政党内閣」とされる。これは、選挙でえらばれる衆議院で、多くの議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚にも、大半が政友会員が充てられたためであった。
原内閣の政策は、外交では対英米協調主義、内政においては積極政策を基調とし、統治機構への政党の影響力拡大強化をその特徴とした。内政では、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには、公債を発行するなど極めて熱心であった。そのため、「我田引鉄」と揶揄される利益誘導政治としての批判もあった。
一方で原は、普通選挙法の施行には否定的で、野党から男子普通選挙制度導入の選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対し衆議院を解散、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。
さらに、積極的な経済政策も、ほとんどが政商、財閥など既存資本に有利なものばかりで、「(爵位なき)平民宰相」ではあったが、決して「民衆首相」ではなかった。このような原首相の大衆軽視政策は、中岡艮一に暗殺される遠因ともなったと考えられる。
◎米・英・仏・日によりワシントン体制確立
*1921.12.13/ ワシントンで米・英・仏・日による「四ヵ国条約」締結。太平洋に新秩序「ワシントン体制」確立。
1921年11月から1922年2月にかけてワシントンD.C.で、アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で国際軍縮会議が開かれた。第1次大戦後の国際的枠組みを定めた1919年のベルサイユ条約に基づく、ベルサイユ体制を補完するものとして、ワシントン会議が開かれた。
太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9ヵ国が参加し、アメリカが主宰した最初の国際会議で、アメリカが国際社会のリーダーに躍り出る端緒となった。
中心テーマは軍縮であり、米・英・仏・日、4ヵ国の主力艦保有量の制限を定めた「ワシントン海軍軍縮条約」が締結された。同時に、太平洋における各国領土の権益を保障した「四ヵ国条約」と、参加全9ヵ国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める「九ヵ国条約」が締結された。これらの条約など、ワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序を「ワシントン体制」と呼ぶ。
第1次世界大戦によるドイツの敗北と、その過程で発生したロシア革命などで、アジア太平洋地域の勢力関係に大きな変化が生じた。独ソの退潮による空白で、アジア地域で相対的に日本の勢力が増すなか、同じく、アジアに利害関心が強まるアメリカが、英仏を引き連れて、日本を牽制しようというのが、会議を主催したアメリカの狙いだった。
その結果、「軍縮条約」では、主力艦の保有量で日本は英米の6割に抑えられた。「四ヵ国条約」では、各国が太平洋方面にもつ領土・権益の相互尊重と、この地域での平和維持について定められたが、20年間にわたって日本の大陸政策を支えてきた日英同盟は、この条約に発展的解消するという形で解消された。さらに「九ヵ国条約」では、中国における日本の権益を押さえる方向で、各国平等に、中国の領土の保全と門戸開放がなされるように取り決められた。
英仏などヨーロッパ列強が欧州のことで精一杯のなか、会議を主催したアメリカは、圧倒的な発言力を発揮した。一方、アジア太平洋地域に中心的利害を置く日本は、個々の具体的な交渉課題を携えて会議に臨んだが、結局、欧米連合に押し切られる形となった。日本は、1920年代の世界的な国際協調時代には歩調を合わせていたが、やがて昭和恐慌の頃から軍部・右翼が台頭すると、ワシントン体制打破を国家方針とするようになっていった。
(この年の出来事)
*1921.3.8/ ロシア共産党大会が開かれ、レーニンの新経済政策「ネップ」案が採択さる。
*1921.5.5/ 孫文が上海で大総統に就任。第2次広東政府を樹立。
*1921.7.1/ 上海で毛沢東らにより、中国共産党創立大会が開催される。
*1921.11.12/ 元老西園寺公望が、後継首班に高橋是清を推薦し、翌13日、高橋内閣が成立。
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