2020年9月10日木曜日

【20C_m4 1905(m38)年】

 【20th Century Chronicle 1905(m38)年】


◎日露講和条約(ポーツマス条約)

*1905.1.5/ 旅順のロシア軍が降伏。水師営で乃木・ステッセル会談が行われる。

*1905.3.10/ 日本軍が奉天に向けて総攻撃し占領するが、死傷者7万人をだす。

*1905.5.27/ 連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破る。(日本海海戦)

*1905.9.5/ アメリカのポーツマスで、日露戦争の講和条約が調印される。(ポーツマス条約)

*1905.9.5/ 日比谷公園で行われた、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に反対する国民集会が、暴動事件に発展。(日比谷焼打事件)


 日露戦争は、1905(明38)年1月の「旅順陥落」で山場を過ぎ、3月の「奉天会戦」と5月の「日本海海戦」で趨勢が決した。ロシアでは、1月の「血の日曜日事件」、6月の「戦艦ポチョムキンの叛乱」など、内政不安で帝政が揺るぎ、戦争どころでなくなっていた。

 日本でも、ロシアを土壇場まで追い詰めたものの、戦時国債によって調達していた戦費は膨大となり、総動員兵力が100万人を超えるなど、戦争遂行の余力は無くなっていた。そこで、日本はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を要請、1905(明38)年8月、アメリカ合衆国ポーツマスで講和会議が開かれることとなった。


 日本は小村寿太郎外相が全権代表、ロシア側はセルゲイ・ウィッテ(元蔵相)が全権代表として会議に臨んだ。ウィッテは、あたかも戦勝国のような態度で臨み、再戦も辞さないと、一歩も譲らない姿勢を貫いた。一方、小村は、日本が国力の限界まで来ている状況を知りつつ、浮かれた国民の多大な戦果期待を背負っての、困難な交渉に臨んでいた。

 会議は決裂の危機をはらみながらも、なんとか合意にこぎつけ、1905(明38)年9月5日、「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結された。講和条約で日本がロシアに認めさせた事項は次の5項目に集約される。


 1.日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。2.日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。3.日本の南満州の鉄道の利権を認める。4.南樺太(北緯50度以南の樺太=サハリン)を日本に割譲する。5.沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡する。

 日本の当初の目的は、韓国の日本支配の認知と、満州におけるロシア権益の放棄であり、これらは講和条約でほぼ達成できていたが、多大な犠牲を強いられた国民は、あおる新聞に乗せられて、賠償金を取れないことなどを不本意な決着と受け取り、「日比谷焼打事件」など各地で暴動が起きた。結果、戒厳令が敷かれ、戦争を指導してきた桂内閣は退陣することになった。


 日露戦争の結果を見て、日英同盟は攻守同盟へと強化され、日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配を相互承認した。またアメリカとも、桂・タフト協定で日本の朝鮮半島支配権とアメリカのフィリピン支配権を相互に確認した。フランスも同盟国ロシアの弱体化を受けて日本に接近、1907(明40)年、日仏協約を締結する。

 ロシアも、国内での革命運動の激化などを背景に日本に接近、1907(明40)年、日露協約(第2次日露協商)を締結し、日本が南満州、ロシアが北満州を勢力範囲とし、日本の朝鮮半島支配とロシアの外蒙古の権益を相互承認した。


 大韓帝国に関しては、列強各国による日本の排他的優先権が認められ、1906年11月の第2次日韓協約によって韓国は外交権を失い、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。そして1910(明43)年には、日本は列強の承認の下に韓国併合にいたる。

 ポーツマス条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになり、日本の在外公館は公使館から大使館に昇格され、また在東京の外国公使館も大使館に格上げされた。このように東洋の小国日本が、大国ロシアと対等以上に闘い、欧米列強と肩を並べるようになったことは、アジアやアフリカの植民地地域の独立の気概に弾みをつけ、とりわけアジアの独立・革命運動を勇気づけることになった。


(この年の出来事)

*1905.1.22/ ロシアの首都ペテルブルクの冬宮前広場で、10万人のデモ隊に軍隊が発砲する。(血の日曜日事件)

*1905.6.27/ 黒海オデッサ港に入港して来たロシア戦艦「ポチョムキン号」で、水兵の反乱が起こる。

*1905.7.29/ 桂太郎首相が、タフト米陸軍長官と覚書をかわし、米はフィリピン領有、日本は韓国支配で合意する。(桂・タフト覚書)

*1905.11.17/ 第2次日韓協約が締結され、日本は大韓帝国を保護国化し、伊藤博文が初代統監となる。


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