2020年9月6日日曜日

【20C_m4 1904(m37)年】

 【20th Century Chronicle 1904(m37)年】


◎日露戦争

*1904.2.8/ 連合艦隊が、旅順港外のロシア艦隊を奇襲、日露戦争始まる。

*1904.2.10/ 日本がロシアに対して宣戦布告する。

*1904.3.27/ 第2次旅順口閉塞作戦で、広瀬武夫少佐が戦死する。

*1904.5.1/ 第1軍が鴨緑江を渡河し九連城を占領、5日、第2軍が遼東半島に上陸する。

*1904.5.26/ 第2軍が南山を占領する。30日、旅順攻略のため第3軍が編成され、司令官に野木希典が就任。

*1904.8.10/ 旅順のロシア艦隊と日本艦隊が黄海で会戦し、日本側が勝利する。

*1904.8.19/ 第3軍が第1回旅順攻撃を開始するが、死傷者1万6,000余を出して失敗する。

*1904.9.4/ 第1・2・4軍がロシア軍と激闘のすえ、遼陽を占領する。この遼陽の会戦で、橘周太少佐が壮烈な戦死をとげる。

*1904.10.26/ 第3軍が第2回旅順攻撃を行うが、死傷者3,800人余を出して失敗する。

*1904.11.26/ 第3軍が第3次旅順攻撃を開始し、12月5日、二〇三高地を占領する。


<日露開戦>

 1904(明37)年2月8日、日本海軍連合艦隊が、旅順港外のロシア艦隊を奇襲し、日露戦争始がまった。同日、日本陸軍先遣部隊が、日本海軍の瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にてロシアの巡洋艦や砲艦を沈没させた(仁川沖海戦)。

 そして、2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。これらの先制奇襲攻撃は、ロシア軍の機先を制することになったが、宣戦布告前の攻撃は、当時は国際法の規定がなかったため、問題にならなかった。2月23日には日本と大韓帝国の間で、日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。


 満州を手中に収め、朝鮮半島にも手を出そうとするロシアに対して、朝鮮半島を生命線とする日本の対立は深まっていた。日本国内では、主戦論・非戦論・反戦論が渦巻いていたが、満州と朝鮮の支配権を相互に認め合おうとする日本の提案も、ロシアの呑むところとならず、ついに開戦となった。

 開戦時、露:日の戦力比較は、歩兵66万:13万、騎兵13万:1万、砲撃支援部隊16万:1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千:1万5千、予備部隊400万:46万とされる。これだけの戦力差をみれば、日本にとって無謀な開戦だと考えられた。実際、伊藤博文などの元老は、慎重論を唱えたが、小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派が押し切る形になった。


 ロシアという強国と戦うにあたって、膨大な戦費の調達を必要とした。当初、日本が圧倒的不利と見られたため、外債にまったく引き受け手が見つからない状態であった。しかし、友好国英国の銀行家たちが、やっと一部の発効ができるという状態だった。日本銀行副総裁高橋是清は直接英国に乗り込み交渉、戦況が有利に進むとともに順調に消化できるようになった。

 当時の日英同盟は防守同盟で、一方が戦争を開始した場合、同盟国は中立を守ることになっていたが、秘密交渉で、日本が単独で対露戦争に臨む方針が伝えられると、イギリスは好意的中立を約束した。日露戦争が勃発すると、イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。日本が開戦に踏み切れたのは、日英同盟が背景で果たした役割が大きい。


 日本が、独仏露の三国干渉で遼東半島を返還したあと、ロシアは旅順・大連を租借し遼東半島に権益を拡大し、旅順に軍港を築き強固な要塞を構築していた。日本陸軍第一軍は、朝鮮半島に上陸し、鴨緑江会戦で勝利し北上、第2軍は、旅順半島の付け根にある南山を攻略し、大連占領後、遼陽を目指して北上した。


<旅順攻囲戦・奉天会戦・日本海海戦>

 1904(明37)年2月、旅順港攻撃と仁川上陸の奇襲作戦でロシアの機先を制した日本軍は、2月から5月にかけて、旅順港に待機したロシア旅順艦隊を、旅順港の出入り口に船舶を沈め封鎖するという「旅順港閉塞作戦」を試みるが失敗に終わった。

 一方、日本陸軍第1軍は朝鮮半島に上陸し、4月末の「鴨緑江会戦」で、安東(丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。続いて第2軍が遼東半島に上陸し、5月26日「南山の戦い」で、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略し、大連を占領後さらに南満州の戦略的拠点の遼陽を目指す。


 北上を続ける日本軍2個軍の後方に、有力な露軍戦力と「旅順要塞」を残置するのは危険とされ、旅順港と旅順要塞の攻略が必要とされた。海軍側は独力で、旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)を無力化することを主張するが、強大なロシア・バルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航が確定すると、陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯で編成が遅れた日本第3軍の司令官には、日清戦争で旅順攻略に功績のあった乃木希典大将が任命された。

 8月末、日本の第1軍、第2軍および第4軍は、南満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。「遼陽会戦」では、日本軍が進撃し遼陽を占領するものの、ロシア軍司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、ロシア軍の撃破には失敗した。10月にはロシア軍が反転攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。やがて両軍は遼陽と奉天(瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対峙する。


 旅順要塞の攻略は難攻を極めた(旅順攻囲戦)。旅順攻略戦と連動して、海軍は「黄海海戦」で、旅順艦隊を何とか無力化に成功した。一方で、乃木大将の旅順要塞攻略は苦戦を強いられ、8月の作戦開始から、翌1905(明38)年1月1日敵将ステッセルの降伏まで、5ヵ月を要し、多大の戦死者を出すことになった。乃木希典の評価は分かれ、のちに明治天皇崩御に際して殉死するに及んで神格化されたが、一方でその将としての資質から、作戦の失敗まで多くの批判もある。

 そして日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。1905(明38)年2月21日、日本軍が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第3軍と第2軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、ロシア軍司令官クロパトキン大将はまたも撤退を指示、ロシア軍の完全撃破には失敗した。


 ロシア・バルチック艦隊は7ヵ月に及ぶ航海の末日本近海に到達、1905(明38)年5月27日連合艦隊と激突した(日本海海戦)。バルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかが、この時重要問題であった。ウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3ヵ所があり得、3ヵ所すべてに戦力を分散するわけにもいかない。連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊が対馬海峡を通過すると予測し、主力艦隊を配置した。

 対馬海峡で日本艦隊の迎撃を受けたバルチック艦隊は、5月29日にかけてのこの海戦で、その艦艇のほとんどを失い、日本海軍の一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果をうけて、ロシア側も和平に向けて動き出した。ロシアでは、1905年1月9日に血の日曜日事件が発生するなど、内政不安が高まっており、さらにバルチック艦隊の敗北で、もはや戦争の継続が不可能になった。


 日本でも、国力をはるかに超える莫大な戦費と多数の兵力を動員しており、国力の消耗が激しかったため、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介を受容れた。アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。


(この年の出来事)

*1904.2.24/ 政府は戦費調達のための英貨公債の発行を決定、日銀副総裁 高橋是清が横浜港を出発する。

*1904.8.14/ オランダのアムステルダムで、第2インター第6回大会が開かれ、日本から片山潜が出席する。

*1904.11.13/ 平民新聞が幸徳秋水・堺利彦の訳した「共産党宣言」を掲載し、発禁処分となる。


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