2020年9月3日木曜日

【20C_m4 1903(m36)年】

 【20th Century Chronicle 1903(m36)年】


◎一高生徒「藤村操」 華厳滝から投身自殺

*1903.5.22/ 第一高等学校生徒 藤村操が、「巌頭之感」を書き残し、日光華厳滝で投身自殺。


 1903(明36)年5月22日、旧制第一高等学校生徒 「藤村操(16)」が、現場に「巌頭之感」とする遺言を残し、栃木県日光の華厳滝から投身自殺を行った。傍らの木に書きつけられた「巌頭之感」が新聞各紙で報道されると、エリート学生の厭世観による死として大きな反響を呼んだ。

 「立身出世」を美徳とし、エリート層に過酷な競争を強いる当時の社会はショックを受け、以降あとを追う者が続出した。保護され未遂に終わった者を含めると、操の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上ったとされ、華厳滝は一躍自殺の名所となった。


「巌頭(がんとう)之感」

《悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリティーを価(あたい)するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解。」我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。》


 藤村操の自殺は自殺直後から様々に論じられ、当時の超エリートの卵の自殺を、多くは社会的損失・国家的損失の視点から扱った。自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説などがあった。

 しかし自殺の原因なるものは、残された遺書や周囲の情況などから、残されたものが勝手に推測するに過ぎず、当人自身が明瞭に自覚してないことさえある。16歳の青二才に人生の真相など「不可解」に決まっているし、失恋と言ってもママゴトの延長線上ものだろう。シニシスト宮武外骨は、自ら刊行する「滑稽新聞」において《 野郎の懸想はただ一言にして悉す。いわく「不及恋」》とパロって揶揄している。


 一方、1903(明36)年1月に英国留学から帰国した夏目金之助(漱石)は、同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師となったところであった。東京帝大では小泉八雲の後任となったが、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こるなど、英文学教師としての漱石は前途多難であった。

 そんな当時の一高での担当生徒の中に藤村操がおり、文学への甘い姿勢や授業中の態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまう。そして、一高の生徒や同僚の教師達からは「漱石が藤村を死に追いやった」など、不本意な噂を囁かれた漱石は、神経衰弱を再発させてしまう。


 漱石は、高浜虚子から精神衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作となる「吾輩は猫である」を執筆、1905(明38)年1月、俳句雑誌「ホトトギス」に掲載され、好評のため続編が書かれることになる。その後「倫敦塔」「坊っちゃん」とたて続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。

 藤村操の投身自殺から得るべき教訓は、「あとさきの迷惑を考えずに安直に自殺するものではない」といった平凡なものでしかないが、いずれにせよ、漱石がその神経衰弱を紛らわすために「猫」や「坊っちゃん」を書いたとすれば、そのたくらまざる功や大なりと言えるかも知れぬ。


 漱石は作品中で、「打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない(猫)」とか、「余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う(草枕)」と、突き放して書いている。ただし「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎」は「藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する(草枕)」として、藤村操の美を求める意志の高邁は認めている。


◎モルガンお雪

*1903.9.30/ 京都祇園の芸妓 加藤ゆきが、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金で、米国富豪 ジョージ・モルガンに身請けされる。


 1903(明36)年9月、祇園の芸妓「お雪」が、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な落籍料により、ジョージ・デニソン・モルガンに身請けされ、翌1904(明37)年1月、横浜領事館で結婚式をあげる。ジョージは、モルガン財閥の創始者J・P・モルガンの甥で、当時30歳の彼も大富豪であった。

 モルガンお雪は本名 加藤ユキ、芸妓名は「雪香」として、京都縄手新橋上ルの外人専用のお茶屋 「小野亭」で芸妓をしており、1901(明34)年、初来日したアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められた。ジョージは、お雪が求婚を承諾するまでの4年間に3度も来日した。


 当時、芝居小屋「千本座」を営んでいた牧野省三(のちに「日本映画の父」と呼ばれる)は、祇園の茶屋遊びを重ねていて、芸妓だったお雪と懇意になった。牧野は、お雪に「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を打ち明けられた。省三は「4、5万円くらい吹っかけてみろ」と冗談でいったところ、数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しが、新聞紙上に踊った。お雪身請けの派手な記事のせいで、省三はお雪と別れなければならなくなったが、省三はこの切ない恋物語を、「モルガンお雪」の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせる。

 お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、ジョージとアメリカに渡るが、当時の排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。1905(明38)年、ジョージとともに一時帰国するが、日本でも「金に目がくらんだ女」などと、世間の好奇の目は変わらなかった。2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。


 1915(大4)年、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その時お雪は34歳だったが、その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るも、米国籍を剥奪され無国籍者となる。そのまま欧州フランスで悠々自適の生活を送る。

 1916(大5)年、陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダールと恋に落ち、マルセイユで同棲する。結婚はせず、受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やすが、遺産をモルガン家に没収される恐れがあるため、タンダールと再婚はしなかった。1931(昭6)年、タンダールが心臓麻痺で死去、ニースの別荘に移る。


 1938(昭13)年、第2次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化したため、家族の世話もあり京都に帰る。戦局が逼迫すると、モルガン家からの送金も途絶え、無国籍のお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられるなど、苦難に遭遇した。日本敗戦後、71歳でカトリックの洗礼を受け(洗礼名テレジア)、以後はいちカトリック信者として京都紫野 大徳寺門前の小家で隠棲、1963(昭38)年、急性肺炎により死去。享年81。


 お雪は、日米欧にかけて数奇な運命を生き抜き、その生涯は何度も著作物や舞台演劇で取り上げられた。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。

 「からゆきさん」は、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷/1974年」によって、戦前で途絶えていた呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。


◎「平民社」と非戦・反戦論

*1903.10.12/ 内村鑑三・堺利彦・幸徳秋水らが、開戦論に転じた万朝報を退社する。

*1903.11.15/ 平民社を結成した堺利彦・幸徳秋水らが、週刊の平民新聞を創刊する。


 1903(明36)年10月、それまで非戦論を主張していた「萬朝報」が、社論を開戦論へと転換したため、同紙記者であった幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が、萬朝報から去る。内村はキリスト者として人道的反戦論を展開するが、幸徳・堺は改めて社会主義的非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために「平民社」を結成した。

 平民社は、週刊「平民新聞」を創刊するが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割をも担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。週刊「平民新聞」第1号(11月15日)には、「平民社同人」署名の「宣言」と、堺・幸徳署名の「発刊の序」が掲載されており、「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。


 日本の社会主義運動は、1901(明34)年に幸徳らによって結成された「社会民主党」に始まるが、これは即日禁止されており、その「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぐことが平民新聞で「宣言」された。「平民新聞」第53号(1904年11月)には、堺・幸徳の共訳で「共産党宣言」が訳載されたが、直ちに発売禁止になった。

 「平民新聞」は英文欄も設け、英米やロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果として、日露戦争中の1904(明37)年8月、アムステルダムで開催された第二インターナショナル第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフが共に副議長に選出されて、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認した。


 日露戦争非戦の主張は官憲に目をつけられ、戦争終結後の1905(明38)年10月、平民社は活動2年足らずで解散することになった。その後、再興するも当局の弾圧で、1910(明43)年3月に解散、その年5月の「幸徳(大逆)事件」で、主要メンバーの大半を失った。

 世間は圧倒的に日露開戦になびいていたが、平民社グループの社会主義的反戦論以外にも、内村鑑三らの人道主義的非戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩などが、日露の戦いに否を唱えた。


 1904(明37)年9月、日露戦争の最中に、歌人与謝野晶子は、旅順で戦う弟を思う新体詩「君死にたまふことなかれ」を、夫与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表した。発表時は反戦厭戦詩と認識され、先輩歌人の大町桂月から厭戦的で国威発揚に反すると批判されるも、「歌はまことの心を歌うもの」と反論している。

*「君死にたまふことなかれ」
https://aozoraroudoku.jp/voice/rdp/rd102.html

 しかしこの詩は、戦場で死ぬかも知れない末弟に対する「(死んで欲しくない、という)まことの心」を歌ったまでで、与謝野晶子は必ずしも平和主義者でも反戦主義者でもなかった。第1次世界大戦の折には「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っているし、1942(昭17)年に、海軍大尉として出征する4男に対して「わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」と、反戦家としては一貫しない正反対の歌をうたっている。


(この年の出来事)

*1903.4.13/ 文部省は、小学校令の一部改正により国定教科書採用に踏み切る。

*1903.6.-/ 内村鑑三が「聖書之研究」や、万朝報で日露非開戦論・戦争絶対反対を論じる。

*1903.7.5/ 幸徳秋水が「社会主義神髄」を出版する。

*1903.10.6/ 小村寿太郎とローゼン駐日ロシア公使とが、満州の権益をめぐり日露交渉を始めるも、双方譲らず不調に終わる。


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