2020年9月2日水曜日

【20C_m4 1902(m35)年】

 【20th Century Chronicle 1902(m35)年】


◎日英同盟協約

*1902.1.30/ ロンドンのイギリス外務省で、「日英同盟協約」が調印される。

*1902.2.17/ 日英同盟締結を祝して、東京 華族会館はじめ各地で祝賀会が開かれる。


 1902(明35)年1月30日、外相小村寿太郎により交渉が進められていた日英同盟が、ロンドンにおいて締結された。この第1次日英同盟では、他国の侵略的行動に対して防衛的交戦に至った場合は、同盟国は中立を守るとする「防守同盟」であった。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。これに意を強くした日本は、日露開戦に踏み切ることになった。

 2年後の1904(明37)年、日露戦争が勃発すると、イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。日露戦争で日本の優勢がきわまると、英国で同盟拡張論が強まり、1905(明38)年8月、第2次日英同盟が結ばれ、締結国が他国と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて「参戦」するという「攻守同盟」に強化された。


 1911(明44)年には第3次日英同盟として更新されるが、情勢の変化から両国にとって条約の重要性は低下した。 日本は第3次日英同盟に基づき、連合国の一員として第1次世界大戦に参戦するが、大戦後の1919(大8)年の「パリ講和会議」では「五大国」の利害が対立し、1921(大10)年のワシントン会議で、日本・イギリス・アメリカ・フランスによる四ヵ国条約が締結される。1923(大12)年、日英同盟は拡大解消という形で事実上消滅した。

 1902(明35)年の初めに、「栄光の孤立」を続けた大英帝国が、新興の日本と「日英同盟」を結んだ。ビクトリア女王が亡くなり、栄光のビクトリア朝に区切りがついて間もない年に、七つの海を制覇した大英帝国が、東洋の小国日本と同盟を結んだことは世界を驚かせたが、両者には、それぞれの思惑があった。


 英国は、アヘン戦争以来、老大国の清に深く食い込み、独占的な権益を確保していたが、日清戦争で新興日本が勝利すると、露仏独などはその隙間に付けこみ清国での権益を拡大し出した。当時の英国は、南アの金鉱利権をめぐって第2次ボーア戦争を戦っており、東洋に戦力を割く余裕がなかった。1900( 明33)年に義和団事件が勃発しても、包囲された租界の自国民を守るために、余裕のない英国は日本に派兵を要請するありさまであった。

 さらにロシアは、その足で満州を占領するとともに、朝鮮半島にも手を伸ばそうとする。英国は、そのようなロシアに対抗させるために、日本をあてがったわけである。日清戦争に勝利し、列強の一角に顔を突っ込みだした日本にとっても、ロシアの進出は、直接の脅威を感じる事態だった。


 日清戦争後の下関条約に異をとなえて露仏独が行った「三国干渉」は、まさにこれら三国の利害が一致することを物語っており、それに対抗するため日英は同盟関係を結んだ。英国との同盟で意を強めた日本は、ロシアとの対立を深め、1904(明37)年、ついに日露戦争へ突入した。

 20年にわたる日英同盟の時期、英国が特別に親日的であったというわけではない。列強による露骨なパワーポリティクスの世界で、「敵の敵は味方」的な流れで日英の利害が一致したに過ぎない。状況が変化すれば組み換えが行われるのは、当然である。第2次大戦時、同盟を結んだナチスドイツにしても、ヒトラーは日本を黄色いサルと蔑んでいたという。


 歴史学者会田雄次の「アーロン収容所」(中公新書)では、第2次大戦のビルマ戦線で英軍の捕虜となり、アーロン収容所で過ごした体験が書かれている。あるとき兵舎の掃除を命じられた筆者が、うっかり英国女性兵士が着替えをしている所に踏み込んでしまった。しかし女性兵士たちは、日本兵捕虜を家畜の牛馬と同じように見なし、まったく動じないで平然と着替えを続けたそうである。


◎大谷探検隊

*1902.8.15/ 西本願寺の大谷光瑞(27)ら探検隊一行が、ロンドンを出発して中央アジア探検に向かう。


 「大谷探検隊」は、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代法主「大谷光瑞」が、中央アジアに派遣した学術探検隊で、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902(明35)年~ 1914(大3)年の間、前後3次にわたって行われた。

 第1次(1902年~1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が、ロンドンから日本へ戻る途上で、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ユーラシア大陸を横断する探検を行った。1902(明35)年8月、一行は列車でベルリンからモスクワに移動したあと、パミール高原を越え、カシュガル、ヤルカンド、タシュクルガンを巡り歩いた。


 タシュクルガンに到着後、大谷光瑞・井上弘円・本多恵隆の3人はカシミールとパキスタンを南下し、列車でインドに向かい、仏教遺跡を巡礼し、1903年3月、航路で日本に戻る。大谷光瑞は、父の法主大谷光尊が死去したため、法主継職のため帰国したが、渡辺哲信と崛賢雄の2人は中国新疆に残り、さらに各地の調査と発掘作業にたずさわった後、1904(明37)年5月に日本に帰国した。

 第2次は1908年~1909年、野村栄三郎・橘瑞超、第3次は1910年~1914年、橘瑞超・吉川小一郎によって行われ、仏教東漸の遺跡として、ホータン、クチャ、敦煌など中央アジア各地を調査した。その発見にかかる多量の美術品・文書などは、「西域考古図譜」・「新西域記」・「西域文化研究」に収録されている。


 三度にわたる探検の目的は、仏教東漸の経路を明らかにし、その後のイスラム教化で埋もれてしまった仏教遺跡から、経典や仏像・仏具を収集し、仏教の源流を確認することであった。当時、大谷光瑞が留学していた西欧では、ヨーロッパ列強が国策として、天然資源調査や植民地的侵略の先兵として、競って探検隊を未近代化地域に送り込んでいた。

 しかも当時、考古学は端に就いたばかりで、海外の探検屋たちには、一獲千金を狙って、遺物を略奪して売り払うことしか考えていないあぶれ物も多かった。そのような時期に、国の支援を受けることなく、専門の探検家でもない若い僧たちが、急ごしらえの組織で広大な西域を探査したのは、それこそ玄奘三蔵の西域仏跡巡礼に匹敵するともいえる。


 大谷光瑞は、第21世法主 大谷光尊の長男として誕生、はやくから次期法主として期待された。9歳で得度すると、上京して学習院や共立学舎で学ぶも続かず、京都に帰り前田慧雲に学んだ。父親の大谷光尊法主の時代は、明治維新の廃仏毀釈で仏教界は混乱の極みで、光尊法主は、教団の改革を進めるとともに、いち早く側近や有望な若手僧侶らを海外留学させて、宗門の近代化に努めた。

 これをうけて若き次期法主 大谷光瑞もロンドンに留学し、当時の敦煌文書発見などの考古学ブームの洗礼を受けた。かくして留学から帰国する途上での西域探索を実行する。さらに法主継職後も続行し、計3回にわたる発掘調査等を行った。法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣、海外伝道も積極的に進めた。


 大谷光瑞の業績は、大谷探検隊で蒐集発掘した考古学的遺産の学術的価値から見るか、仏教徒として、仏教の淵源を辿り、その後、本願寺派法主としての教団改革、さらには政治的参与を含めた、大谷光瑞その人の事績を評価するかで、かなり異なってくる。

 法主としての光瑞は、六甲山麓の岡本に二楽荘を設け、探検収集品の公開展示とともに、英才教育のための私塾である武庫中学を作ったり、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置して、教育・文化活動の拠点とした。二楽荘の他にも、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。


 しかし1914(大3)年、大谷家が抱えた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。これらは、大資産家の跡取りが、散財して財を失うのと似ているように見えなくもない。しかも、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任したり、太平洋戦争中の近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めるなど、戦前の政治的参与もあり、戦後は公職追放となったまま、1948(昭22)年に没した。

 教団内部では、蓮如上人以来の大改革者とみなす見解もあるが、世間一般的には、大谷探検隊以外の事績に付いての評価は、必ずしも定まっているとは言い難い。これは晩年の戦争協力および公職追放という事実が、大谷光瑞の全体像を扱いづらくしているせいでもあろう。


(この年の出来事)

*1902.1.23/ 青森歩兵第5連隊第2大隊の将兵210名が八甲田山で遭難、死者199名をだす。(八甲田山死の彷徨)

*1902.9.2/ 東京専門学校が「早稲田大学」と改称し、10/19大学開設および創立20周年記念式典を行う。

*1902.10.6/ 横浜でペストが発生、やがて東京へも飛び火する。

*1902./12.17/ 小学校教科書をめぐる贈収賄事件で、各地で一斉検挙が始まり、100人以上が有罪となる。これを機に、国定教科書制度が採用されるようになる。(教科書疑獄事件)


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