【20th Century Chronicle 1906(m39)年】
◎「弩級戦艦」ドレッドノートが進水
*1906.2.10/ 英国軍港ポーツマスで、戦艦「ドレッドノート」が進水する。
イギリス軍の世界最大の戦艦「ドレッドノート」が軍港ポーツマスで進水、世界に大艦巨砲時代の到来を告げた。ドレッドノートの出現により、日露戦争時に世界最強といわれた日本海軍の三笠、ロシア海軍のボロジノ型戦艦は一気に旧式化した。
ドレッドノートの登場により「大艦巨砲主義」が幕を開けたとされ、これは太平洋戦争まで続く。列強各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開し、ドレッドノート級の戦艦を、日本ではドレッドノートのドに弩と当て字し「弩(ド)級戦艦」と呼んだ。さらに、英国海軍のオライオン級戦艦が進水すると「超弩級」という言葉が登場する。
現在でも「超ド級の大ホームラン」などと使われるが、語源はこのドレッドノートにさかのぼる。太平洋戦争直前に建造された戦艦大和や武蔵は、世界最大を誇り「超々々弩級戦艦」などと呼ばれた。しかし皮肉にも、真珠湾攻撃で空母と艦載機による攻撃の有効性が証明され、米国はいち早く「空母機動部隊」による海戦戦法にシフトしてゆく。
太平洋戦争で活躍の場を得られなかった大和型戦艦は、その終盤、もはや満足な艦隊も組めなくなった状態で出撃することになり、武蔵も大和も航空攻撃によって撃沈された。日本海軍の大艦巨砲が、米海軍の空母航空部隊の航空機に敗れる形で、大艦巨砲主義は終焉を迎えた。
◎自然主義文学と島崎藤村
*1906.3.25/ 島崎藤村が「破戒」を自費出版する。
自然主義文学は、19世紀末のフランスのエミール・ゾラが「ナナ」「居酒屋」などを発表して、モーパッサンなどとともに自然主義文学を確立した。ゾラは自然科学の視点から、人間の行動や一生を客観的に解明しようとした。ゾラの作品は、日本の1900年代の文学界に大きな影響を与え、坪内逍遥らによる写実主義を経て、島崎藤村の「破戒」(1906年)や田山花袋の「蒲団」(1907年)によって、日本の自然主義文学が生れた。
島崎藤村は、第一詩集「若菜集」を出して、ロマン派詩人として文壇に登場した。しかし1899(明32)年、長野県の小諸に英語教師として赴任し、写生文「千曲川のスケッチ」を書くと、詩から離れ散文に転向し、この地での経験から「破戒」を構想する。1905年に上京し、翌1906(明39)年、「破戒」を自費出版。文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。
翌1907(明40)年、田山花袋が、中年作家の女弟子への複雑な愛情を描いた「蒲団」を発表、女弟子に去られた男が、女の蒲団に顔をうずめて涙するという描写は、読者や文壇に衝撃を与えた。しかしこの作品によって、自然主義とは現実を赤裸々に描くものと解釈され、日本の自然主義文学は狭隘な告白的なものに収斂していった。
藤村も、1908(明40)年、教え子との愛と葛藤を書いた「春」(1908年)、明治期の家長制度の桎梏を描いた「家」(1910年)、姪との近親姦を告白した「新生」(1918年)など、問題作を次々と発表する。これらは、それぞれの時期での藤村自身の現実生活の苦悩を赤裸々に告白したものであるが、各作品には明瞭に特定できるモデルが存在し、「新生」で関係を晒された姪は、日本にいられず台湾に渡ったほどだった。
その後の日本文学の自然主義は、みずからの愛欲の世界を赤裸々に描くなど、読者の覗き見趣味を刺激したりして、小説の内容は作家の事実そのままの告白合戦の様相を示してゆく。そしてその流れは、もっぱら作家の身の回りや体験を描く、日本文学固有の「私小説」に矮小化されていった。
やがて反自然主義運動も盛んになり、永井荷風らの耽美派、雑誌「白樺」を中心とする白樺派、余裕派の夏目漱石、高踏派の森鷗外、新現実主義の芥川龍之介らが活動するなかで、自然主義は急速に衰退していった。一方で、社会の真実をみつめる方向性は、資本主義の発展のもとで、無産階級の悲惨を描く「プロレタリア文学」に一部引き継がれたともいえる。
◎夏目漱石「坊っちゃん」
*1906.4.-/ 夏目漱石が「坊っちゃん」を、俳句雑誌「ホトトギス」4月号で発表する。
漱石は、前年より「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を連載中で、その好評に意を強くして、「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表する。夏目金之助漱石は東京帝大卒の超エリート英文学者として、ロンドン留学から帰国すると、一高や東大の英語教師の教壇に立った。
しかし、彼は教師業にはさっぱり向いていない人物だったと思われる。東京帝大では、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任に迎えられるも、漱石の硬い講義は不評で、八雲留任運動が起こるなど順調にはいかなかった。また、当時の一高での受け持ちの生徒であった藤村操が、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺するという事件が起こる。こうした中で、漱石はロンドン以来の持病でもあった神経衰弱を再発する。
妻鏡子とも別居するなど鬱々とした状況で、気ばらしがてらに書き出したのが「吾輩は猫である」だった。その好評で続編を書き、漱石は作家として身を立てることを決意すると、中編の痛快活劇「坊っちゃん」を一週間で書き上げる。「坊っちゃん」は、一種のピカレスク(悪漢小説)に分類されるが、「猫」や「倫敦塔」にはなかった漱石の表現の幅を広げる作品となった。
(この年の出来事)
*1906.2.1/ 韓国統監府が開庁し、伊藤博文が初代統監に就任する。
*1906.11.26/ 南満州鉄道株式会社が、東京に設立される。
*1906.12.14/ ドイツ海軍に「灰色の狼」が産声。潜水艦「Uボート」第1号が就役する。
0 件のコメント:
コメントを投稿