【19th Century Chronicle 1891(m24)年】
◎立憲自由党の迷走
*1891.1.8/ 衆議院予算委員会が、政府提出予算の大幅削減案を報告する。(1.9 政府不同意)
*1891.2.20/ 予算をめぐって紛糾中の衆議院で、予算削減には事前に政府の同意を求めようとの動議が、立憲自由党の土佐派の賛成で成立する。(土佐派の裏切り)
*1891.2.24/ 土佐派などの29議員が、立憲自由党を脱党する。(2.26 板垣退助も脱党)
*1891.3.19/ 立憲自由党大会で、党名を「自由党」と改称し、板垣退助を総理に選出する。
第1回の選挙で民党勢力が過半数を占めた衆議院では、さっそく新年度予算の策定で紛糾した。衆議院予算委員会が、政府提出の予算案に大幅な削減を求め、政府はこれに不同意としてもめた。ところが、衆院第一党の立憲自由党の中で一部議員(土佐派)が裏切り、一転して予算が成立してしまった。
帝国議会が開始されるに際して、急遽、自由党・愛国公党・大同倶楽部が合流して結成された「立憲自由党」は、様々な派閥の寄せ集め集団であった。中でも、土佐で板垣退助が設立した立志社の流れをくむ土佐派は独自の動きを見せ、政府予算案への対応で党内は紛糾した。
結果、土佐派は板垣退助を擁して離脱、自由倶楽部を設立して立憲自由党は分裂した。しかし1891(明24)年3月19日には、星亨の仲裁によって、板垣退助を総理(党首)として「自由党」へ改称して立て直しをはかり、自由倶楽部も解散して復党し、分裂を回避した。
さらに板垣退助は、もう一方の民党である「立憲改進党」の大隈重信と連携し、「民党連合」に合意する。しかし第2次伊藤内閣の懐柔などで、立憲改進党が離反するなどして、民党連合は解消された。やがて、条約改正・日清戦争などの問題を抱えた伊藤内閣は、自由党に妥協し両者の提携が宣言され、板垣が内務大臣として入閣した。
その後の第2次松方内閣が、立憲改進党の後身である「進歩党」と結んだため、自由党は野党になる。だが、地租増徴問題で進歩党が野党に回ると、これと連携し、1898(明31)年には自由党と進歩党が合同して「憲政党」を結成した。このように、未熟な政党政治は合従連衡を繰り返し、本格的な政党政治は、大正時代にずれこむことになった。
◎大津事件
*1891.5.11/ 来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀の大津で、沿道警戒中の巡査に襲撃される。(大津事件)
*1891.5.27/ 大審院はロシア皇太子傷害事件の津田三蔵容疑者に、大逆罪を適用せず、謀殺未遂罪で無期徒刑を判決する。
1891(明24)年5月11日、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ二世)が、京都に滞在し日帰りで琵琶湖観光の途中、滋賀県滋賀郡大津町(大津市)で、警備にあたっていた巡査津田三蔵に斬りつけられ負傷する事件が起きた。列強の一つであるロシア帝国の皇太子が、しかも警備の巡査に襲われるという事件で、日本政府に大激震が走った。
接待係として随行した有栖川宮威仁親王(海軍大佐)から、即日電報で事件の状況を上奏された明治天皇は、ただちに翌朝新橋駅を発ち、夜には京都御所に入った。翌13日、ニコライ皇太子の宿舎である京都の常盤ホテルに赴いて、天皇自ら見舞い謝罪した。さらには、ロシア艦隊を率いて神戸港に停泊中の御召艦に戻るニコライを、熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れて神戸まで見送った。ニコライは、ロシア本国からの指示もあり、予定の東京訪問を中止し、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還の途についた。
犯人の津田は、人力車夫などにその場で取り押さえられた。犯行の動機に政治的背景などはなく、ロシアへの反発など供述したが、概ねは、津田巡査の短絡的な思い込み以上のものではなかった。しかし政府は、強国のロシアの怒りを恐れ、伊藤博文枢密院議長や松方正義首相など政府中枢は、「大逆罪」を適用しての死刑を求めた。
時の大審院院長「児島惟謙」は、法治国家として法は遵守されるべきであり、刑法に外国皇族に関する規定はないとして、政府の圧力に反発した。大逆罪は、天皇・三后・皇太子という皇室に対する犯行であり、我が国の国体そのものへの反逆として規定され、その刑罰は死刑のみとされた。しかし、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、規定とおりなら、一般人への殺人未遂・傷害事件として扱うしかなかった。
大審院は、16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪を適用、津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を下した。この事件への大審院の判決は、司法の独立を守ったとして、曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。対外的にも、日本の司法権に対する信頼を高め、日本が近代法を運用する主権国家として認知されるようになり、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみともなったとされる。
ロシア側は、皇帝アレクサンドル三世やニコライ皇太子が、日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示し、日本政府は、ロシアと対立することなくこの問題を無事解決できた。ロシアは維新以来の日本にとって潜在的脅威ではあったが、この事件そのものが日露関係を悪化させるということはなかった。
しかし1895(明29)年、日本が日清戦争に勝利し遼東半島などを獲得すると、ロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で、フランス、ドイツとともに「三国干渉」を仕掛け、一気に日露関係は悪化した。ニコライは翌1996(明30)年に即位して、ロシア皇帝「ニコライ二世」となる。そして、ロシアが朝鮮半島にも触手を伸ばしだすと、対立は決定的になり、1904(明38)年「日露戦争」が勃発した。
ニコライは、大津事件での天皇以下明治政府の丁重な対応に納得したが、日本人は野蛮だとの心証を持ち「黄色い猿」と侮蔑していたという。ニコライ二世となってからも、いざ日本と開戦になっても簡単にひねり潰せると考えていたが、思いもかけない苦戦を強いられ、屈辱的な講和(1905/ポーツマス条約)を結ぶことになる。
内政では、皇后にとり入って宮廷にくい込んだ怪僧ラスプーチンが、政治にも口を挟むようになり、人心の不信をかっていた。そんな中で、1914年、第1次大戦が勃発すると、ニコライ二世は汎スラブ主義を唱えて参戦し、結果的にはロシア革命を招いてしまう。ニコライ一家は幽閉され、やがて家族全員がボルシェビキに射殺された。結局、ニコライ二世は、ロシア・ロマノフ王朝最後の皇帝として、悲劇の一家とともに記憶に残される運命となった。
(この年の出来事)
*1891.1.9/ 第一高等中学校の始業式で、嘱託職員の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否する。
*1891.3.8/ 神田駿河台に日本ハリストス正教会の聖堂「ニコライ堂」が開堂する。
*1891.11.17/ 文部省は、天皇皇后の御真影と教育勅語謄本を、奉安殿に納めておくことを全国学校に命令する。
*1891.12.18/ 田中正造が、足尾鉱毒事件事件に関する質問書を衆議院に提出し、政府に対策を迫る。
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