2020年8月21日金曜日

【19C_m2 1890(m23)年】

 【19th Century Chronicle 1890(m23)年】


◎琵琶湖疎水

*1890.3.15/ 滋賀県琵琶湖の水を京都に導く「琵琶湖疎水」が完成する。


 今の京都市は、幕末には戦乱の舞台となり、明治維新となると東京遷都で都でなくなった。多くの公家や関連商人なども、帝に伴って新首都東京へ移り(羊羹の虎屋なども)、京都は衰退の危機にさらされた。強引な手法で毀誉褒貶のある2代目「槇村正直」府知事だったが、新政府からの手切れ金がわりの復興資金などを活用し、「京都博覧会」の開催や、中心街の寺社境内を活用して「新京極」と呼ばれる新娯楽街をつくって、産業振興につくした。

 京都近代化復興策は「京都策」と呼ばれ、その第1期は槇村らによって、新産業の奨励や人材育成策として展開されそれなりの成果を収めた。槇村が中央政界に転出したあと、3代目府知事「北垣国道」に代わった1881(明14)年ごろから、なんとか活気を取り戻した京都では、近代的なインフラの整備が必要となってきた。そこで、「琵琶湖疎水(京都疎水)」の大事業が着手されることになった。


 琵琶湖疏水は、舟運・発電・上水道・灌漑用水などの目的で作られたが、現在は京都市に上水を供給するのが主たる目的となっている。大津市の取水口から京都市東山区蹴上までの最初の水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って北上し、高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と呼ぶ。

 当時の京都府予算の2倍にもあたる膨大な費用が投入されて、琵琶湖疏水建設は1885(明18)年6月に着工、4年後の1889(明23)年3月に、「第一疏水」と、蹴上から分岐する「疏水分線」とが完成された。これだけの大工事には、当時は外国人お抱え技師に頼るのが一般的であったが、事業の主任技師として北垣知事に登用されたのは、工部大学校(現東京大学)を卒業したばかりの青年技師「田邉朔郎(21)」であった。


 疎水の水力利用は、当初、水車動力として工業団地に活用予定だったが、田邉らのアメリカ視察で計画変更され、日本初の営業用水力発電所として「蹴上発電所」が建設されることになった。この電力を用いて1895(明治28)年には、日本初となる「京都電気鉄道」(京電)の運転が始められた。今でも京都人は、この日本最初の水力発電と電気鉄道を誇らしく語ることになっている。

 さらに、二条近くの鴨川合流点から伏見までの「鴨川運河」は、1894年(明27)年に完成した。鴨川運河は鴨川東岸に沿って流れ、今は多くが暗渠化されており、あまり目立たない。鴨川西岸の木屋町通りを流れる「高瀬川」と混同されることが多いが、こちらは、江戸時代初期に角倉了以によって造られた掘割運河であり、いずれも大阪からの水運の終点としての伏見と、京都をつなぐ船便物流として重要であった。


 明治後半から大正にかけては、京都市の「三大事業」として「第二琵琶湖疏水(第二疏水)」建設、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」という近代都市に不可欠のインフラ整備の大プロジェクトが企画され、第二疏水により取水量は大幅に増大され、日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場など、現在も京都市民への良質の水道水を提供している。百年来、京都が水不足に悩まされることがないのは、ひとえに琵琶湖疎水のおかげといえる。

 琵琶湖の湖水面と京都市街地の間には、50mほどの高低差があるという。この落差を利用して、滋賀県大津から東山蹴上まで「第一疏水」として導かれてきた水は、ここで分岐して「疎水分線」として北上する。南禅寺「水路閣」から「哲学の道」と、現在観光地化している疎水は、この途上にある。


 京都市街地は北部へ行くほど高くなっており、これが「上がる/下がる」という呼び方の所以となっているが、京都北山松ケ崎周辺まで北上する「疎水分線」は、この京都人の土地感覚に逆行している。実は、東山山麓に沿った勾配を利用して北へ流しているのだという。子供のころ、松ケ崎から下鴨へかけて、「白川疎水」が緩やかに流れる閑静な住宅地に叔父の家があり、何度か叔父の家の前の疎水で遊んだ記憶がある。それが琵琶湖の疎水分線の一部だと知ったのは、後日になってからだった。


◎大日本帝国議会開設

*1890.7.1/ 第1回衆議院議員選挙が行われる。

*1890.7.10/ 第1回貴族院議員伯爵・子爵・男爵議員の互選選挙が行われる。

*1890.11.29/ 第1回帝国議会が、東京日比谷に建設された仮議事堂で開かれる。

 

 第1回帝国議会の開設に先立って、1890(明23)年7月1日、第1回衆議院議員選挙が行われた。また、貴族院は世襲議員で構成されるが、数の多い伯爵・子爵・男爵だけは、7月10日、記名投票で互選された。そして11月29日、日比谷に仮設された議事堂で、第1回帝国議会が開かれた。

 注目の衆議院議員選挙は、改選数300、小選挙区制(一部2人区制)、被選挙権は士族か平民(皇族・華族は貴族院議員候補なので立候補できず)、そして選挙権は「直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性」のみが有し、有権者は全人口の1%強という極端な制限選挙であった。


 選挙結果は、板垣退助の率いる「立憲自由党」が130議席で第一党となった。大隈重信の「立憲改進党」の41議席と合わせて、「民党」と呼ばれる政府批判派が、171議席と圧倒的過半数を占めた。しかし、保守性の強い世襲議員で構成される貴族院が、衆議院とほぼ対等の権限を有するとされ、衆議院での決議が直接政治に反映される範囲は限定された。

 大日本帝国憲法では「立法権」は天皇の大権に属するとされ、帝国議会の権限は「立法協賛権」及び「予算協賛権」といった協賛権や承諾権であり、提出された法案や予算案を承諾することだけであった。ただし、議会の協賛が得られないものは無効とされ、実質的な審議権は保有していた。


 そもそも、第2代内閣総理大臣黒田清隆は、前年の大日本帝国憲法公布の翌日に、政府は超然として政党の外に立つという「超然主義」を宣言し、議会の動向に左右されずという立場を取り、帝国議会開設時の山縣有朋内閣もそれを踏襲した。まがりなりにも政党内閣が成立するのは、1918(大7)年の原敬内閣まで待たなければなかった。


(この年の出来事)

*1890.1.-/栃木 足尾銅山の鉱毒で、渡良瀬川の魚が多数死に、問題となる。

*1890.5.5/東京 板垣退助が、第1回総選挙を控えて「愛国公党」組織大会で、自由党・大同倶楽部との合同を提唱する。

*1890.7.25/ 集会および政社法を公布する。政治結社と政治集会の取り締まりを強化し、各政党の連携を禁止する。

*1890.9.15/ 旧愛国公党・旧自由党など民権各派を統合して「立憲自由党」が結成される。

*1890.10.30/ 国民の教育方針を忠君愛国においた「教育に関する勅語(教育勅語)」が発布される。



0 件のコメント:

コメントを投稿