【19th Century Chronicle 1871(m4)年】
◎戸籍法制定
*1871.4.4/ 戸籍法を制定する。行政区画として区が設置され、戸長・副戸長を置くことになる。(翌2月「壬申戸籍」が編成さる)


この最初の戸籍法には不備も多く、多くの機能(印鑑証明・地券等)を持たせたことにより、複雑となった。また、記載様式も特に設けられなかったことから、地方によって書式の詳細に格差が生まれた。さらに、定期的に改編するという規定も、その通りには実行されておらず、かなりの異同が生じたと考えられる。
明治19(1886)年、壬申式から統一書式を用いた戸籍へと変更が行われ、同年11月より徐々に移行された。明治31(1898)年の戸籍法により、この壬申戸籍は改製原戸籍として取り扱われ、保存期間が経過した後に廃棄処分扱いとされていたが、市町村によってはその後もこれを閲覧に供していたところもあった。

久しく忘れられた壬申戸籍であったが、その名前が昭和の高度成長の最盛期に復活することになる。1968(s43)年、被差別部落民を探り出すためにこの戸籍が用いられようとした「壬申戸籍事件」が発覚し、差別批判をするマスコミや、被差別部落解放の団体などから、強く糺弾された。国は民事局長通達により閲覧禁止とし、将来の学術資料・歴史的資料の可能性を残すため、厳重封印のうえ保管されることになった。

「壬申戸籍」が、前近代的な差別を温存する意図のもとに作成されたという見解は、糾弾する団体などの側から主張されるが、戸籍法自体は、それを第一義に目的としたものではないだろう。作成に当たって、各地域ごとに記載様式にばらつきがあったため、戸籍係の恣意により「新平民・穢多」が書き加えられたという見解もある。実際、そのような記載はあくまで例外的だったとされる。
なお近年に、研究目的などの理由で、壬申戸籍の情報公開請求をした事例があるが、いずれも行政文書非該当を理由に却下されている。しかし、かつて閲覧が許されていた時代が続いていた以上、その写しが闇で流通する懸念はぬぐえない。どれだけ、完全な壬申戸籍が流出しているかは不明だが、その一部がデジタル化されて流通すれば、拡散は免れない。そのような情報をニーズとする側の規制も必要であろうと思われる。
◎廃藩置県
*1871.7.14/ 明治天皇が、56藩知事を招集し、廃藩置県の詔勅を出す。

一方、旧幕府所管の幕府領などは、新政府直轄地として、府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」というが、上記のように「藩」(便宜上この時だけ旧大名領に用いられた)は旧体制と変わらない、極めて中途半端な状況であった。
新政府では、軍事面と財政面に置ける中央集権体制の確立が急務であった。しかし、大久保利通や木戸孝允など新政府の政策実現の実力者は、薩摩藩の島津久光をはじめとする旧体制保守派の隠然たる勢力を無視できず、漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。

政権中枢を担う大久保や木戸は、中央集権体制の確立の必要を痛感していたが、両人は、強力な軍事力を保持する薩摩藩の同意をえるためにも、西郷の東上が必須と考えた。1870(明3)年12月に、勅使岩倉具視や大久保利通が、西郷を呼び戻すために鹿児島に来訪した。
明治4(1871)年1月、西郷と大久保らは、途中、山口の木戸孝允、土佐の板垣退助、そして大阪では山縣有朋と合流して東上する。京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。2月13日には、鹿児島(薩摩)藩・山口(長州)藩・高知(土佐)藩の兵を統合し「御親兵」に編成する旨の命令が出され、帰薩していた西郷はこれに呼応して、約5,000名を率いて上京し東京に駐屯した。

明治4(1871)年7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。集められた知藩事には、順次、廃藩の詔勅が宣せられた。この過程は、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、一ヵ所に集め廃藩置県をいきなり断行するなど、言わば騙し討ちに近い形で実行された。予想された抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な親兵をもって鎮圧することになっていた。

廃藩置県により、封建領主の権利は奪われたが、中央集権的近代国家の確立までには、まだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団として木戸、大久保らの外遊中に、明治政府を率いた西郷らの留守政府に託された。留守政府の元で、徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が着々と実行されていくことになった。
◎岩倉使節団
*1871.11.12/ 欧米事情視察のため、特命全権大使岩倉具視らが横浜を出発。津田梅子ほか5人の少女が、初の女子留学生として、使節団に随行。(岩倉使節団)

使節団の構成は、特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳であり、それに多数の随行員に加えて、中江兆民ら欧米各国への留学生が同船し、その内には、一行の最年少6歳の津田梅子ら、ほぼ少女といえる女子留学生5名も含まれていた。


一方、使節団の長期外遊中に政権運営をまかされた「留守政府」は、太政大臣三条実美を筆頭に西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平らによって担われた。断行されたばかりの「廃藩置県」に関しては、関連法整備など、多くの施策が残されていた。出発前の盟約書では、「留守中に大規模な改革を行わない」としていたが、「廃藩置県の関連処置は速やかに行う」ように指示されていた。
使節団の出発後、留守政府は学制改正・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備・キリスト教弾圧の中止などの改革を積極的に行った。留守政府の改革については、岩倉使節団の留守中に新規の改革を行わないという盟約に反し、留守政府が勝手に行った結果、その後の「明治六年政変」の起因となり、さらに士族反乱や農民一揆を引き起こす原因ともなったとする見解がある。
しかし、廃藩置県によって従来の統治システムを根本的に解体した結果、それを代替補完するシステムの早急な構築は必須であった。「学制」や「徴兵制」は、旧来の藩校・藩兵に代替して作られた教育・軍事システムの基幹であり、使節団出発前から進められつつあったものであった。「地租改正」も、大久保らの意向を受けて、使節団出発前にその原案が作成されていた。

軍政を仕切る山縣有朋が、山城屋事件という軍公金焦げ付き事件で辞任に追い込まれると、かねてからの「強兵」派の西郷は、山縣を擁護し、自ら軍総司令官元帥に就任した。一方で、「富国」を推進する大蔵省の大隈・井上・渋沢栄一らに対しては批判的で、財政政策の対立で井上・渋沢が辞任に追い込まれた際にもこれを容認し、政治力を補完するために後藤象二郎・江藤新平・大木喬任を参議に追加した。
そしてさらに決定的だったのは「征韓論」を巡る対立であった。参議板垣退助らが、直接派兵による解決(征韓論)をとなえたのに対して、西郷は武力ではなく、旧例に則った使節を編成し、自らがその全権大使になると主張(遣韓大使論)した。一旦は西郷遣韓大使が、明治天皇の了解まで得られたが、明治6(1873)年9月帰国した岩倉使節団の岩倉・木戸・大久保らは、時期尚早としてこれに反対し、決定をひっくり返した。

なお、征韓論による下野から西南戦争にいたる西郷隆盛の、意図と行動には幾つもの不明な点があるが、これらは別の機会に触れてみたい。
(追記)
当時、日本人が海外で撮った写真が二枚ある。
ひとつは、岩倉使節団がサンフランシスコに到着したあと、1972年に記念撮影したもの。岩倉具視だけが全権代表の格を示すためにか、羽織袴に丁髷という和服正装で写っている。アメリカに到着した当初、たくさんの米人たちが集まるので大歓迎されているとご満悦だったが、聞いてみると岩倉の着物にちょん髷が面白いと、見物に集まっているのだということ。これじゃ馬鹿にされて交渉も進まないと、以後は、岩倉も断髪して洋服を着たという。ちなみに使節団が出発する前の1871年9月に、新政府は「散髪脱刀令」を布告しているが、これはちょん髷禁止ではなく、散髪は自由にせよという命令だったようだ。(しかしなぜか岩倉は和装に革靴を履いてる)
もうひとつ、こちらの写真ではほぼ全員が和装のままだ。これは遡る「1867年パリ万国博」で、幕府が初参加したときのもので、派遣された幕臣たちである。まだ大政奉還以前なので、幕府は日本国を代表するするつもりで参加したが、いざ開催されてみると「薩摩琉球国」として薩摩藩の展示があって、幕府はあわてて主催側に抗議するというありさま。幕府権威の凋落を、パリ万博で世界に発信してしまう結果に終わった。もっとも受けたイベントは、急造の茶室で芸者がキセルでタバコを吸うシーンだったそうである。
(この年の出来事)
*1871.1.24/ 東京・京都・大阪間に郵便開始が定まる。3府に郵便役所を置き切手を発売する。
*1871.2.15/ 大阪で造幣寮開業式が行われ、イギリスから輸入した造幣機で統一的な貨幣鋳造が始まる。
*1871.3.8/ 愛知の菊間藩で廃仏運動に対する護法一揆が起き、浄土真宗宗徒3,000人が蜂起する。(大浜騒動)
*1871.3.28/ フランスでパリ・コミューンの成立が宣言される。
*1871.5.10/ 新貨幣条例を制定する。金本位制が採用され、貨幣の呼称が円・銭・厘となる。
*1871.7.14/ 西郷隆盛(旧薩摩藩)・木戸孝允(旧長州藩)に加え、新たに大隈重信(旧肥前藩)と板垣退助(旧土佐藩)が参議となる。
*1871.7.29/ 日清修好条規を結ぶ。
*1871.12.26/ 司法省に、東京裁判所が置かれる。(裁判所設置の初め)
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