【19th Century Chronicle 1870(m3)年】
◎維新新施策の展開
*1870.1.3/ 大教宣布の詔が発せられ、神道の国教化が図られる。
明治3(1870)年1月3日、「大教宣布の詔」が明治天皇の名により出された。これにより、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。
*1870.1.27/ 「日の丸」の寸法が定められ、商船の国旗と定められる。
*1870.9.8/ 東京の越中島で天皇閲兵のさい、薩摩藩音楽伝習隊が西謙蔵の指揮で「君が代」を演奏する。
幕末に開国すると、外国商船との識別が必要となり、船舶用の国籍標識(惣船印)として「日の丸」が導入された。また外国との交流では、国歌が外交儀礼上欠かせないものと認識され、イギリス公使館の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンによって作曲された「君が代」が演奏された。ただしこの時の「君が代」は、現在のものとはまったく違っていた。
いずれにせよ、「日の丸」「君が代」は、国際交流上必要とされた結果であり、当時の日本政府が主体的に定めたものではなかった。これらが公式に「国旗・国家」と定められるのは、1999(h11)年の「国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)」においてであった。
*1870.2.-/ 政府は、ドイツ医学の採用を決め、大学東校の教師にドイツ医師2人を招くことにする。
*1870.10.2/ 海軍はイギリス、陸軍はフランスの軍隊制度を導入することが決まる。
海軍がイギリス、陸軍がフランスの軍隊制度を導入したことによって、のちに様々な軋轢を起こすことになる。また陸軍はドイツ医学を採用して、日本国内ではドイツ医学が主流となったが、海軍はイギリス医学を主体としたため、軍医学でも様々な齟齬があった。
<平民の苗字使用>
*1870.9.19/ 政府が、平民の苗字使用を認める。
江戸時代まで、苗字を使用したのは公家及び武士などの支配階層で、一種の特権とされていた。明治新政府により従来の身分制度の再編が図られ、明治3(1870)年9月19日「平民苗字許可令」で、平民に「苗字」の使用を許可した。
しかし、当時の平民には苗字は普及せず、明治8(1875)年、改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出すことになる。
*1870.1.26/ 旧長州藩の山口で、奇兵隊などの解散措置に反発する脱退兵約1,800名が反乱を起こす。(脱退騒動)
*1870.3.20/ 愛媛旧宇和島藩で、伊予国奥野郷の農民が、年貢の減免などを求めて暴動を起こす。(野村騒動)
*1870.6.19/ 長崎高島炭鉱で、坑夫ら約400名が暴動を起こし逃亡する。
*1870.11.17/ 大分日田郡で、村役人廃止・雑税撤廃を求める農民1万人が参加する騒動が発生する。
*1870.12.19/ 中野県(長野)で、世直しと称して農民が県庁を焼き打ち、中野町を3日間占拠する。
*1870.12.26/ 脱藩浪士を集めたため謀反の罪に問われた、米沢藩士雲井竜雄ら12人が処刑される。
明治3(1870)年初め、旧長州藩では兵制改革で旧来の諸隊を解散し、洋式常備軍への編制替えに着手したが、幕末に活躍した奇兵隊など諸隊は、解散による処遇や家禄削減などによる不満で、反乱を起こした。山口藩議事館(山口藩庁)を包囲し、農民も合流して1,800人規模の反乱軍となり、解雇の撤回を要求したが、長州出身で明治新政府重鎮となった木戸孝允(桂小五郎)が、討伐軍大隊を率いてこれを鎮圧した。
他にも旧藩の廃止による社会体制の変化により、各地で不平不満を暴発させた旧武士や農民の反乱が頻発したが、まだ「不平士族の反乱」と呼ばれる組織だった反乱には至らなかった。
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