【19th Century Chronicle 1869(m2)年】
◎維新の暗殺
*1869.1.5/ 新政府参与の横井小南が、京都丸太町で暗殺される。
*1869.9.4/ 兵部太輔大村益次郎が、京都木屋町で旧長州藩士に襲われる。(11.5没)
幕末の京都の街では、長州藩藩士などが中心に「尊王攘夷」を称えてテロ事件を引き起こした。一方、京都守護職配下の京都見廻役や新選組は「佐幕開国」を擁護する警察取締りを行った。しかし、全国各藩の藩論はまちまちで、しかも何度も反転したりもしていた。そんな中で、長州藩や薩摩藩などでは、実際に攘夷を実行し、逆に列強艦隊に打ちのめされたため、攘夷の不可能さを認識した。そして薩長連合が成立すると、共に「倒幕」へと向かってゆく。
やがて、大政奉還、王政復古、戊辰戦争と続く中で、はっきりと「尊王開国」という方針が確定し、明治新政府が成立することになった。尊王開国という「ねじれ決着」は不思議にも思えるが、「尊王攘夷」は改革のためのイデオロギーとして展開され、一方で「佐幕開国」は現状是認の主張に過ぎない。そして「倒幕」が進み、一方で「攘夷」が不可能となると、その帰結は「尊王開国」となるしかない。
やがて新政府の形が出来上がって行く中で、倒幕側にも幕府側にも、時代の流れから取り残された攘夷派が存在した。不満を募らせた彼等は、新政府要人の暗殺に走ることになる。明治2(1869)年1月には、福井藩などで藩政改革に関わり「開明派」とされ、新政府参与となった横井小南が、近代化政策に反発する十津川郷士によって暗殺された。明治2(1869)年9月には、新政府軍の事実上の創設者とされる、元長州藩兵学者で新政府兵部大輔 大村益次郎が、旧長州藩士によって襲われ、その傷が元で死去した。
「横井小南」は、熊本藩士の次男として生まれ、藩校時習館に学ぶ。時習館居寮長(塾長)となり、居寮新制度を提案するも実施は頓挫。ただこれにより、家老長岡是容の後ろ盾を得て、藩命により江戸に遊学、全国の有為の士と親交を結んだ。しかし酒席での喧嘩から帰国を命ぜられ、熊本で謹慎する。
この間、小楠は朱子学の研究に没頭し、研鑽仲間とともに研究会を開き、やがて実用を重視した「実学党」と称せられるようになるが、藩学の「学校党」と対立することとなり、研究会をとりやめる。その後、私塾「小楠堂」や「四時軒」を開き、吉田松陰や坂本龍馬など、維新の多くの要人の訪問を受けている。
福井藩士が小楠堂に学んだ縁から、福井藩主松平春嶽に招聘され、福井藩校明道館で講義を行うなどした。以降、数度、熊本と福井を行き来しながら、福井藩内での保守・進歩の両派対立を見て、小楠は「国是三論」で挙藩一致を呼びかけた。また、江戸に上ると、幕府の政事総裁職となった藩主春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として「国是七」を起草した。
熊本藩江戸留守居役別邸で熊本藩士ら酒宴中、3人の刺客の襲撃を受け、小楠は自身の太刀を取れなかったため、福井藩邸まで戻り取って返したが、これが仲間を置いて逃亡したという士道忘却であると避難された。福井藩の擁護などで切腹は免れたものの、小楠は熊本藩士としての地位を召し上げられ、浪人となった。
慶応3(1867)年12月、王政復古の宣言をした新政府は、すぐに政府の人材登用を検討し、熊本藩および横井小南に出仕要請を打診した。熊本藩は、士席剥奪の状態の小南の登用に難を示したが、新政府副総裁の岩倉具視は小楠の事を高く評価、改めて上京の命令が下された。かくして、小楠は藩の士席を恢復され、京都に入って新政府の参与に任じられた。
明治2(1869)年1月5日、参内の帰途、京都寺町通丸太町近くで、十津川郷士らの襲撃を受け暗殺された。新政府の開国政策に不満を持つ保守派が、開明的な政策を提起する小楠を襲った構図だが、直接の理由は、小楠が開国を進めて、日本をキリスト教化しようとしているという、事実無根のものだった。むしろ新政府は幕府の禁教令を維持して、明治6(1974)年までキリスト教の禁止を続けたし、小楠自身も、キリスト教が新政権の混乱要因となると考えていた。
横井小南の開明性は、その壮大なスケールから西郷隆盛や坂本龍馬、勝海舟など幕末の英傑に先んじて、思想に根本的な影響を与えたとされる。小楠は「富国有徳」という言葉で、東洋の哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、近代日本の歩むべき道を構想した。福沢諭吉などのいう「和魂洋才」を、既に取り込んでいた。
小楠は、保守的な出身藩熊本では受け入れられず、福井藩や幕政の改革に招かれ、さらに新政府から招聘されるなど、藩や幕府、新政府など狭い了見に捉われず、将来を見越した展望を持っていた。いわば、マネジメント・テクノクラートが、彼の基本資質であったと思われる。
<大村益次郎>
「大村益次郎」は、周防国の村医の長男として生まれ、シーボルトの弟子 梅田幽斎から医学や蘭学を学ぶと、豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園入塾し、漢籍・算術・習字などを学んだ。さらに大阪に出て、緒方洪庵の適塾に入門すると塾頭となり、長崎にも遊学したあと、帰郷すると村医を開業した。
当時、黒船来航など、幕末の動乱が起きつつある時期で、蘭学者としての知識が求められ、伊予宇和島藩から請われ宇和島藩士となる。やがて村田蔵六と改名して、宇和島藩主伊達宗城の参勤に同行して江戸に赴くと、私塾鳩居堂を開塾し、蘭学・兵学・医学を教えた。さらに、幕府の講武所教授となり、当時最新の兵学書の翻訳と講義を行い、そんな縁で長州藩の桂小五郎と知り合った。
これを機に、長州藩の要請により長州藩士となり、長州と江戸を行き来し、幅広く蘭学・洋学を教え、多くの蘭学者・洋学者とも交友ができる。長州では、藩校明倫館で西洋兵学の講義を行い、一方で鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩の軍備関係の仕事に邁進する。
高杉晋作らが挙兵して保守派から藩の実権を奪取すると、藩論は倒幕でまとめ上げられ、高杉が奇兵隊を創設し軍制改革に着手すると、大村はその指導に携わった。桂小五郎の推挙により100石取の上士となり、このとき大村益次郎永敏と改名する。第2次長州征伐が始められると、大村は陣頭指揮を取り、幕府軍をことごとく撃破した。
徳川慶喜による大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに際して、毛利広封に随行して大村は京都に入る。この時、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したとされる。王政復古により明治新政府が成立すると、新政府の軍備担当に就任し、各藩からの寄集め兵を訓練するなど、近代国軍の基礎づくりを開始した。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸城開城となったが、大村は江戸へ出向き、慶応4(1868)年5月15日に、旧幕府軍の残党による上野戦争がはじまると、討伐軍を指揮し、わずか1日で勝利に導いた。以後も関東北部から東北へと続く戊辰戦争では、事実上の新政府軍総司令官として江戸から指揮を取り、一連の戊辰戦争を収束に導いた。
戊辰戦争での功績により、大村益次郎は、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通らと並び、新政府の幹部に就任、新政府軍制改革の中心人物として、藩兵に依存しない政府中央軍の創設を目指したが、旧雄藩藩兵を主体にした旧士族中心の軍隊を編成しようとする大久保らとの間で意見が対立した。
大村は、諸藩の廃止・廃刀令の実施・徴兵令の制定・鎮台の設置・兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の先進的な青写真を描いていた。だが、国民皆兵を目標とする大村の建設的な意見は、必ずしも周囲の理解を得られなかった。大久保は、戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していたため、士族の反発を心配したし、岩倉具視らは、農民の武装は一揆につながる恐れがあるとして、ともに慎重な態度をとったのである。
大村は、その建軍構想がことごとく退けられることとなり、辞表を提出したが、軍事に関して大村に代わるべき人物はなかった。そのため木戸孝允は彼を慰留し、大村は兵部大輔(今の次官)に就任することとなった。大村は、軍の中核を東京から大阪を中核にした関西へ移転させようとした。大阪がほぼ日本の中心に位置しているという地政学的な理由とともに、西南雄藩の不平士族の反乱も視野に入れていたという。実際、西郷の西南の役という大反乱が、大村の死後に勃発している。
大阪方面に軍事施設建設の下見の出張として、京の三条木屋町の長州藩控屋敷に滞在して各地を巡ったが、明治2(1869)年9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館にて、同僚2人と会食中に、元長州藩士ら8人の刺客に襲われる。大村益次郎だけが、とっさに浴室の風呂の中に隠れて追撃を免れたが、重傷を負い、その傷が元で11月に死去する。
横井小南も大村益次郎も、尊王攘夷などというイデオロギーには無関係な、徹底したリアリストであった。幾つもの藩や幕府にまで招かれる「実学」を身に着けており、まさに誕生したばかりの明治新政府にとって、最も必要とされた才能であった。それが、攘夷などという旧弊のイデオロギーから目ざめることのない、旧下級武士たちに暗殺されたことは、歴史の皮肉というほかない。
◎版籍奉還
*1869.6.17/ 諸藩の「版籍奉還」を勅許し、各藩主は改めて「知藩事」に任命される。公卿・諸侯の称号は廃止され「華族」となる。
箱館戦争の終結とともに戊辰戦争が終了し、全国が新政府の支配地となったが、旧幕府直轄地以外の諸藩は、各大名による従来通りの統治がおこなわれていた。各地の大名に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令は強制力のない太政官達(太政官布告)で行うしかなかった。
戊辰戦争で疲弊した明治新政府は、軍政上や財政上にも、早急に「版籍奉還」を行って諸藩をも完全な統治下におく必要があった。しかし、各藩には近代化と中央集権化に反対する勢力も隠然たる力をもっていた。そこで、大久保利通や木戸孝允らは画策し、新政府樹立を主導した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の藩主が主導して版籍奉還の上表を提出し、それを受けて新政府は、明治2(1969)年6月、全国の藩に版籍奉還を命じるという形で、6月17日より順次、各藩による「版籍奉還」が始められた。
6月中には大半の藩の版籍奉還が行われ、土地(版図)と人民(戸籍)は明治政府の所轄する所となった。そして各大名は、そのまま「知藩事」として引き続き藩の統治に当たることとされた。これは幕藩体制の廃止の一歩ではあるが、現状はほとんど江戸時代と変るところがなかった。
藩側からすれば、徳川幕府の崩壊により、将軍から知行安堵されるという武士社会の主従関係の根拠は失われ、戊辰戦争を通じて多くの藩主は近代戦での主導力を発揮できず、藩主の権威は失墜、しかも戦乱で藩財政は破綻していた。それらの藩では、進んで版籍奉還に応じる条件も備わっていた。
しかし、版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に変わり、藩士も知藩事と同列の朝廷の家臣となるわけで、これまでの主君家臣の主従関係が根本的に否定されることは、封建体制にどっぷり浸かって来た諸藩の保守勢力からの抵抗も大いに予想された。そこで版籍奉還の実施の意義については曖昧な表現を用いてぼかし、そのため藩の中には、将軍に代って朝廷が知行安堵を行ったもの、と誤解する向きもあった。
旧来の幕府と藩が統治するという幕藩体制から、明治新政府の中央集権的直接統治に移行するにおいて、「版籍奉還」は形式的にそれを切り替えたことになるが、実質的な統治体制まで変えるには至らなかった。もちろん、新政府の為政者もそのことは承知していたが、不満の爆発を考慮して、漸進的に進めるしかなかった。それは2年後の「廃藩置県」をはじめ、「四民平等」「地租改正」と旧来の封建制度を一歩一歩変革していく最初のステップであった。
(この年の出来事)
*1869.1.-/ 天理教教祖の中山みきが「おふでさき」を書きはじめる。
*1869.6.29/ 九段に「招魂社」を創建し、戊辰戦争の戦死者を祀る。(のちの靖国神社)
*1869.12.1/ 長崎の浦上キリシタン、配流のための乗船始まる。12月中に捕らえられた約800人の浦上キリシタンは、20藩に分けて預けられる。
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