2020年7月30日木曜日

【19C_m1 1868(m1)年】

【19th Century Chronicle 1868(m1)年】

◎鳥羽・伏見の戦い
*1868.1.3/ 京都南部の鳥羽・伏見で、薩摩・長州藩兵と旧幕府軍が戦い、一連の「戊辰戦争」が開始される。「鳥羽・伏見の戦い」
*1868.1.6/ 大坂に陣取っていた幕府軍の総大将徳川慶喜将軍が、急遽大阪を出帆して江戸に帰る。


 慶応3(1867)年12月9日の「王政復古の大号令」により、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。慶喜は恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、13日に大坂城へ退去した。ただし、慶喜の領地返上の意志は明確に示されず、新政府議定の松平春嶽らは、徳川家の意向を確認して決定するとして、慶喜が上洛することが合意された。

 江戸市中では、薩摩藩浪人たちの挑発行為がエスカレート、江戸城二ノ丸炎上事件まで起こすと、旧幕府側は報復に江戸薩摩藩邸焼討をして、薩摩と旧幕側との実質戦闘状態に拡大した。大坂の幕軍側にこの知らせが届くと、薩摩討つべしの声が高まり、慶応4(1868)年元日、慶喜は「討薩表」を発し、朝廷に訴えるために京都へ向けて出発した。


 旧幕府軍主力の幕府歩兵隊・桑名藩兵・見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩・桑名藩の藩兵・新選組などは伏見市街へ進んだ。慶応4(1868)年1月3日、鳥羽街道を防御していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒部隊が接触した。旧幕府側が強引に突き切ろうとしたため、薩摩藩兵が発砲し、偶発的な戦闘状態になった。奇襲を受けた旧幕府軍の先鋒は潰走し、後続の部隊が反撃するも、薩摩藩兵の攻勢の前に下鳥羽方面に退却した。

 一方、伏見でも通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣にし、対する薩摩・長州藩兵は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖した。奉行所内の会津藩兵や土方歳三ひきいる新選組が斬り込み攻撃を掛けるも、薩摩藩砲兵等の銃砲撃により阻止され、新政府軍が伏見奉行所に突入すると、旧幕府軍は中書島から淀方面にまで撤退した。


 この時点で、京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名に対して旧幕府軍は15,000名を擁していたが、鳥羽では大目付滝川具挙がいち早く退却逃亡、伏見では陸軍奉行竹中重固が部隊を放置したまま淀まで逃げるなど、指揮系統が壊滅し混乱に陥った。唯一統率が取れて士気が高かったのは、新撰組や見廻り組といった刀剣に長けた精鋭部隊だったが、彼らが突撃を試みるも、新政府軍の訓練された砲撃部隊の前には為すすべもなかった。

 1月3日の朝廷緊急会議では、この偶発的な戦闘に対して議論が分かれたが、最終的には、議定の岩倉具視の裁定により徳川征討と決した。時を同じくして、岩倉が密かに作成させていた「錦の御旗」が、新政府軍の本営 東寺に立てられた。御旗が戦闘の場にも登場すると、朝敵とされるのを恐れた旧幕府軍は、雪崩をうって退却したという。近江方面からの東方旧幕府軍の侵攻も不発に終わり、退却して防御をはった淀や、男山麓の橋本などでも、「官軍」となった新政府軍に打ち破られた。


 1月6日、開戦に消極的だった慶喜は、大坂城で旧幕府軍へ徹底抗戦を説いた。しかしその夜、僅かな側近と共に大急ぎで、幕府軍艦開陽丸で大坂湾から江戸へと退却した。開陽丸艦長の榎本武揚は、別艦船で薩摩艦船と阿波沖海戦を戦い大坂に帰着したとき、慶喜に置き去りにされたのに気づくほどだった。

 退却したとはいえ、旧幕府軍は新政府軍の数倍の戦力を温存しており、体制を建て直し反撃する力を持っていたが、大軍を指揮する人材はなく、総大将の敵前逃亡により旧幕府軍は継戦意欲を喪失した。慶喜は、旧幕府軍の戦況の不利を予見し、錦の御旗が翻ったのを聞くと、朝敵となるのを恐れて恭順を示そうとしたともされるが、多くの旧幕府軍を置き去りにして逃亡したことは、軍の総大将としてはあるまじきことであった。


 1月7日、朝廷から慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵となった。9日、新政府軍の長州軍が大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となり、1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名藩は新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的にも日本の代表政府としての地位を失った。そして、2月には「東征軍」が進軍を開始する。

 以後、旧幕府の残党が抵抗する一連の戊辰戦争が展開され、江戸市街での上野戦争や、北陸地方・東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続いてゆく。


(追補1)
 慶喜には戦闘する気は毛頭なくて、武力で威嚇しながら上洛させて、朝廷に上表書を渡すだけが目的だったと思う。それで進軍させられた戦闘部隊はやりにくいはず。
 進軍するなら先制攻撃が必須、前進しながら心理的に受けでは勝てない。最初から方針の失敗だろうと思う。だからこそ、慶喜は早々にあきらめて、江戸にとんずらした。で、それを見た諸藩の寄せ集め幕府軍も、やーめたとさっさと国もとへ引き上げた(笑)

(追補2)
 そもそも旧来の江戸幕府は、直轄の軍事力として旗本や御家人からなる戦国時代以来の体制を続けていた。これらは武士という戦闘のプロの武術に基づいた戦闘体系で、銃火器を多量に活用する近代戦闘にまったくの不向きの組織となった。

 ナポレオン軍の例を挙げるまでもなく、近代戦では国民皆兵が必須で、その萌芽は高杉晋作の騎兵隊などに見られ、さらに薩長を中心に近代火器の導入も討幕軍側が先行していたと言われることが多い。

 しかし徳川幕府側も西洋式軍備の導入を図っており、桜田門外の変の後、文久の改革として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」が創設され、陸軍奉行の下に歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制を導入した。ただし、あくまで従来の軍制と並立する組織であったわけで、オモチャの兵隊的な要素は強かった。

 第二次長州征討の無残な敗戦後、15代将軍徳川慶喜の下で、幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、フランス軍事顧問団による指導も導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成された。最終的に幕府陸軍は48大隊・総員24,000人の規模を誇る日本最大の西洋式軍事組織となっていたとされる。しかし末端の幕府歩兵隊は事実上、金子で雇われた傭兵が多く軍員としての自覚も薄かった。

 大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いが発生すると、この戦闘に幕府陸軍の精鋭部隊が動員されたが、兵数で新政府軍を上回るも、会津・桑名などの藩兵や旧幕府軍の混成で、数の有利を活かせない戦法・指揮系統の混乱で、総指揮官の陸軍奉行竹中重固が逃亡してしまい敗退する。

 さらに、総大将徳川慶喜が夜陰に紛れて江戸まで撤退するに至って、幕府軍は崩壊した。将軍慶喜が官軍側に完全帰順を示してからは、幕府本隊としては機能しなくなり、それに不満をもって脱走した一部の幕府死守派が、その後の東北戦争や函館戦争に追い詰められていったというわけである。

 結局は、幕府軍全体を近代化軍組織として再構成できず、図体だけはでかい烏合の衆として分解してしまい、孤軍奮闘した会津・桑名藩兵や新撰組残党が際立つことになったのであろう。

◎江戸無血開城
*1868.2.3/ 新政府が、徳川慶喜征討の詔勅を発布する。
*1868.2.12/ 徳川慶喜が、江戸城を出て上野寛永寺に謹慎する。
*1868.3.14/ 新政府軍大総督参謀西郷隆盛と、旧幕府陸軍総裁勝海舟が会見し、「江戸無血開城」が決定される。
*1868.4.11/ 江戸城が開城し、徳川慶喜は水戸へ移動する。

 慶応4(1868)年1月11日、鳥羽・伏見の戦いから逃れて江戸に帰着した徳川慶喜は、さしあたっての江戸警備の策を施すとともに、親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに周旋を依頼する書翰を送った。しかし、新政府による徳川征討軍の襲来が想定されるなか、徳川家の取る選択肢は、徹底恭順か、抗戦して形勢を逆転するかの2つだった。

 畿内からは掃討されたものの、江戸をはじめとする東国には、旧幕府側の勢力がそのまま温存されていた。勘定奉行兼陸軍奉行 小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張、一方、幕臣の勝海舟らは徹底恭順を唱えて意見が分かれる。しかし慶喜は恭順の意志を固めており、小栗が進言する徹底抗戦策を容れずに罷免、徳川家人事を恭順派中心に編成しなおす。


 陸軍総裁には勝海舟が就任し、軍事の最高指揮官として恭順策を実行に移していくことになった。徳川家の公式方針は恭順と確定し、慶喜は江戸城を退出し、上野寛永寺で謹慎に入る。しかし、それに不満をもつ旧幕臣らは、独自の動きを見せ、江戸で抗戦するかまえを示した。

 新政府は、慶応4(1868)年2月3日、徳川慶喜征討の詔勅が発布されると、熾仁親王が東征大総督に任命され、大総督府には江戸城・徳川家の処遇などほぼ全権が与えられた。大総督府参謀には公家のほか西郷隆盛らが任用された。2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。江戸城進撃の日付が3月15日と決定された。


 駿府にまで迫っている東征軍に対し、上野寛永寺で謹慎中の徳川慶喜は、身辺警護をしていた山岡鉄太郎(鉄舟)を、恭順の真意を示すために大総督府へ派遣する。西郷と面識がなかった山岡は、まず陸軍総裁勝海舟を訪問し、紹介の労を願い出る。勝と山岡も初対面であったが、その人物を評価すると、書状をしたためるとともに元薩摩藩士を護衛に付けて送り出した。

 山岡鉄舟は駿府の大総督府へ急行し、参謀西郷隆盛と面談を求めた。西郷は、旧知の勝からの使者として、山岡との交渉に応じ、徳川家へ開戦回避に向けた7箇条の条件を提示した。山岡にとっては想像された厳しい条件ではあったが、唯一のむことができないのは、慶喜を外様の備前藩預けにすることだった。主君への大義という正論をぶっつける山岡に、西郷も自身の預かり事項となして折れた。


 山岡はこの結果を江戸で勝に報告、西郷も江戸薩摩藩邸に入った。3月13日・14日の2日にかけて江戸薩摩藩邸において、徳川家側の責任者の大久保一翁および勝海舟と、大総督府参謀西郷隆盛の会談が行われ、山岡鉄舟も同席した。すでに江戸へ入る各方面の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。

 2回に渡る交渉の結果、西郷は翌日に迫った江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。この同じ日、京都では明治天皇が天神地祇の前で誓う形式で「五箇条の御誓文」が発布され、明治国家の基本方針が示された。


◎五箇条の御誓文
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
*1868.3.15/ 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。
*1868.3.28/ 新政府が神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。
*1868.閏4.27/ 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 「五箇条の御誓文」は、慶応4(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。


 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美が天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。

 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。


 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与 由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。

 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。


 慶応4(1868)年閏4月21日には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8(1875)年の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。

 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。


◎「明治」改元・東京遷都
*1868.8.27/ 京都御所において、明治天皇即位の礼が行われる。
*1868.9.8/ 「明治」と改元され、一世一元の制が定められる。
*1868.9.20/ 明治天皇が、東幸のため京都を出発する。
*1868.7.17/ 江戸を「東京」と定める。

 この後、「明治」と改元され、明治天皇の東京行幸と言う形で、事実上の「東京遷都」が行われ、順次「明治時代」としての国体が整えられてゆくことになる。この改元で、旧暦慶応4年1月1日が旧暦明治元年1月1日(新暦1868年1月25日)とされた。したがって、旧暦慶応4年は実質的に存在しないことになったが、改元の9月以前は「慶応4年」と表示する。

 ただし、「明治」に改元されても新暦に「改暦」されたわけではなく、依然として旧暦が使用された。新暦(グレゴリオ暦)への改暦は、グレゴリオ暦の「1873年1月1日」を「明治6年1月1日」とする、という形で実行された。この日は旧暦の明治5年12月3日に相当し、旧暦明治5年は、この旧暦12月3日以降は無くなったことになる。

 余談だが、新政府が突然、新暦への改暦を断行したのは、実は官吏への俸給を月給制に移行したばかりで、その給料に充てる財源が逼迫したからとされる。この明治5年は、12月の次にさらに旧暦閏月のある年であり、12月3日で翌年1月1日となると、事実上2ヵ月分が無くなったことになる。つまり明治5年は、官吏への給料を2ヵ月分、節約することができたのである。

 そう考えると、給料をもらう側から苦情が出ないのが不思議だが、彼らに2ヵ月間給料の支払いが停止されたわけではない。旧暦明治5年12月分の給料が、新暦明治6年1月分として支払われることになっただけである。

 なお、この歴史ダイジェストでは、「明治6(1873)年1月1日」より前の改暦前の年号記述では、たとえ西暦数字で表記していても、月日は旧暦に従っている。したがって新暦の月日とは一ヵ月近くずれたりしている。


◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)

<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。

 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。


 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。


<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。


 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。

 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。


 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。

 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。


◎函館五稜郭の戦い
*1868.8.19/ 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。
*1868.10.25/ 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。
*1868.12.25/ 榎本武揚が蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 

 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日、奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊に旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。

 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩や庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三ほか、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。


 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに、旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。

 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日、箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3,000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府の箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。


 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍は10月25日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させ、旧幕府軍は箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩の松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。

 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書を新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。

 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍は青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌 明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。


 新政府軍艦隊が東北の宮古湾に入るとの情報を受けると、榎本軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。

 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一、土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。


 明治2(1869)年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館湾海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。

 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍が箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。


 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁はいったん拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な「海律全書」を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、旧幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。

 5月18日、五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。


 新政府軍黒田清隆と旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

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