◎大政奉還と討幕密勅
*1867.1.9/ 睦仁親王(明治天皇)が、京都で即位する。
*1867.4.-/ 土佐藩が亀山社中を「海援隊」と改称し、藩の傘下に置く。
*1867.5.21/ 土佐藩士板垣退助(乾退助)・中岡慎太郎らが、薩摩藩家老 小松帯刀・薩摩藩士 西郷隆盛らと、討幕挙兵を密約する。
*1867.5.4/ 薩摩藩の主導で、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(春嶽/越前藩)・伊達宗城(宇和島藩)・山内豊信(容堂/土佐藩)の「四侯会議」が、京都の越前藩邸で始まり、将軍徳川慶喜を含めて順次会談が行われる。
*1867.6.22/ 土佐藩士 後藤象二郎・中岡慎太郎・坂本龍馬、薩摩藩士 西郷隆盛・大久保利通らが、大政奉還の盟約を結ぶ。
*1867.6.-/ 長崎から上京の船中で、坂本龍馬が8ヵ条の国家構想「船中八策」を、土佐藩参政 後藤象二郎に示す。
*1867.7.29/ 土佐藩で中岡慎太郎が、陸援隊を組織する。
*1867.9.18/ 薩摩藩と長州藩が、討幕挙兵の盟約を結ぶ。
*1867.10.13/ 長州藩と薩摩藩に、「討幕の密勅」が下る。
*1867.10.14/ 将軍徳川慶喜が、「大政奉還」を上奏し、翌日勅許される。
*1867.11.15/ 中岡慎太郎(30)・坂本龍馬(33)が幕府見廻組に襲撃され、龍馬は即死、慎太郎は2日後に絶命する。
第2次長征の最中に将軍家茂が死去し、半年近く空位の後、やっと徳川(一橋)慶喜が将軍職に就いた。一方、そのすぐ後に、頑強な攘夷主義者で長州嫌いの孝明天皇が急死し、慶応3(1867)年1月9日、京都で睦仁親王(明治天皇)が、元服前の14歳で即位する。このあたりから、京都の朝廷をめぐって、政局は一挙に流動的となる。
すでに薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制するため、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えていた。そこで薩摩藩在京首脳の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは、雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する「四侯会議」を画策する。
四侯会議の議題は、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかを巡って展開されたが、実質は徳川慶喜と島津久光の主導権争いであった。慶喜は、優柔不断な摂政二条斉敬に強引に迫り、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定した。結果的には慶喜主導が功を奏して、一連の京都政局では慶喜側が勝利し、四侯会議は散会する。
将軍慶喜は、京都における一会桑権力(慶喜政権)をもとに幕府主導の公武合一を狙い、薩摩藩国父 島津久光は、諸侯による列侯会議路線をめざし「四侯会議」を主導した。一方で、長州藩は尊皇急進派が藩政を牛耳って討幕に突き進んでおり、薩摩藩の西郷や大久保も、四侯会議の不首尾を見て、討幕に傾いていった。もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、久光をも説得して武力倒幕路線をとり、秘かに岩倉具視ら討幕派公家と結び、倒幕の密勅降命に向け工作を進めた。
一方、四侯会議の途中から薩摩と距離を置き始めた土佐藩主 山内容堂は、この後、徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む「船中八策」を聞いた土佐藩参政の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。容堂は、これを徳川家存続の妙策として、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、慶応3(1867)年10月14日、大政奉還が実行されることとなる。
土佐藩の建白を受け、慶応3(1867)年10月13日、徳川慶喜は、上洛中の幕府側重臣を京都二条城に招集し大政奉還を諮問、翌10月14日、「大政奉還上表」を朝廷に提出する。摂政 二条斉敬ら朝廷側は当惑したが、薩摩藩小松清廉、土佐藩後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日の朝議で大政奉還勅許が決定し、大政奉還が成立した。
大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪うことに成功したが、慶喜の将軍職辞任には触れず、武家の棟梁としての地位は維持した。慶喜は、朝廷に政権を運営する能力がなく、徳川家が天皇の下の新政府に参画することで、実質的に政権の中枢を握り続けられると考えた。
討幕派の工作も同時進行しており、奇しくも大政奉還上表の同日、慶応3(1867)年10月14日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡された。この密勅には天皇による裁可の記入がないなど、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。この時期、親幕府派である摂政二条斉敬(徳川慶喜の従兄)が朝廷を仕切り、三条実美ら急進派公家は京から追放されたままであり、岩倉具視ら一部の討幕派下級公家によって企まれたものとされる。
機先を制した慶喜の大政奉還により、密勅を受けた討幕の実行はいったん延期となり、その目標を失った。すでに討幕の盟約を結んでいた薩摩・長州・芸州の3藩は、出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで12月9日の王政復古へと向かっていくことになった。
(追補)
坂本龍馬の「船中八策」は後世の創作という説もあるが、それはとにかく内容は、公議政体論のもとで、
といったもので、海援隊を率いた龍馬らしい独自案は6と8の対外政策程度で、ほかは交流をもった勝海舟や横井小楠などとの談話などから得たものの寄せ集めと思われる。あくまで「大政奉還」の方便として、「旧幕府および雄藩諸侯による公議政体」のもとでの「議会政治」を持ち出したものだろう。
つまり、「天皇親政のもとでの公議政体」というフィクションで、旧幕・諸侯・朝廷の三者ともを納得させるというもので、そこは「妥協の天才」龍馬ゆえの発想といえるかも知れぬ(笑)
「四侯会議」なるものは、それぞれ勝手な方向を向いた諸侯の詰め合わせ饅頭みたいなもんで、集めて何とかなるものではない。島津久光の意向を受けて会議を仕組んだ西郷や大久保には、破綻するのは織り込み済で、破綻させてうるさいオヤジども(諸侯)を黙らせるのが狙い、討幕のための口実作りだったのだろう。当然、諸侯の口出しを嫌う徳川慶喜が、会議を破綻させるために動くのも想定内で、むしろ将軍追討の名目ともなる。そこへ、坂本龍馬が、後藤象二郎を通じて山内容堂というアル中オヤジを担いで、慶喜に「大政奉還」をさせてしまったので、討幕の名目を失った。
こう考えてくると、近江屋で龍馬を暗殺させた黒幕には、西郷・大久保らの薩摩討幕派が介在したとも考えられてくる。たまたま居合わせた中岡慎太郎は、むしろ討幕に傾いていたとされ、実際に暗殺者は中岡のとどめを刺さずに帰ったと言われる。とはいえ、見廻り組など下級暗殺部隊に、両者の区別がついたかどうかは怪しいが。
◎王政復古の大号令
*1867.12.9/ 朝廷から「王政復古の大号令」が出され、小御所会議では徳川慶喜の辞官・納地を決め、徳川家の勢力一掃を図る。
慶応3(1867)年5月の四侯会議では、雄藩諸侯による公議政体を目論んだが、幕府主導体制を意図する将軍徳川慶喜が、かき回すことで崩壊させた。この失敗で、小松清廉(帯刀)・西郷隆盛・大久保利通・ら薩摩藩主導者は、従来の公議政体路線から武力倒幕へ方針を転換した。しかし薩摩国許には島津久光をはじめ、武力討幕に反対する勢力も強く、これらを転換させるために、岩倉具視を通じて討幕の密勅の降下を求めた。
これらの動きを察知した将軍慶喜は、機先を制し、土佐藩山内容堂の建白を受け入れる形で、慶応3(1867)年10月14日、「大政奉還」を上奏し(翌15日に勅許)、幕府(徳川将軍家)に委託された形の政権を、朝廷に返上する旨を表明した。慶喜は幕府体制の行き詰りを承知し、天皇の下に一元化される新体制のもとで、自らが主導的役割を果たそうと考えた。事実、朝廷には政権を運営する能力も体制も皆無であった。
大政奉還上表の同日、薩摩・長州藩に「討幕の密勅」が下されていた。しかしこの時点の朝廷は、摂政二条斉敬をはじめ親幕ないし公武合体派が大半を占め、急進討幕派は岩倉具視ら少数であった。したがって、この密勅も岩倉らが仕組んだものである疑いが濃い。しかも大政奉還によって、討幕の名分も無くなり、密勅の効力も失われてしまった。
朝廷は諸侯会議を召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝(尾張藩)・松平春嶽(慶永/越前藩)・島津久光(薩摩藩)・山内容堂(豊信/土佐藩)・伊達宗城(宇和島藩)・浅野茂勲(芸州藩)・鍋島直正(肥前藩)・池田茂政(慶喜の実弟/備前藩)ら諸藩に上洛を命じた。しかし、招集された諸大名は形勢傍観の構えで、土佐の山内容堂などは12月になってようやく入京するありさまだった。
朝廷内で大勢を占める親徳川派の摂政二条斉敬などが主宰する会議では、諸侯会議も慶喜の思わくに沿ったものになりかねないと危惧した岩倉具視ら急進討幕派は、薩摩藩らと結んで宮中クーデターを計画した。慶応3(1867)年12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りを厳しく制限、二条摂政など親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止し、首謀した岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発した。
「王政復古の大号令」は、徳川慶喜の将軍職辞職受諾、京都守護職・京都所司代の廃止、幕府の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職をおく、というものであった。新体制の樹立を決定されると、新たに置かれる三職の人事が定められた。
この宣言の狙いは、徳川慶喜と一会桑体制を支えてきた会津藩・桑名藩を京都から追うことで、慶喜の新体制への参入を排すること、および、旧来の摂政・関白以下の朝廷機構や、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配を解体することであり、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。
同 慶応3(1867)年12月10日、御所内の小御所にて「小御所会議」が開かれた。明治天皇臨席のもと、最初の三職会議であったが、会議は徳川慶喜の扱いを巡って、山内容堂ら公議政体派と、岩倉具視など旧弊を排除したい新政体派との間で紛糾した。容堂らは、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張し、慶喜の出席を許されていないことを批判した。
両者とも譲らず休息に入ったが、その間に、待機していた西郷らが、いざとなれば武断も辞さない姿勢を見せたとされ、会議再開後は容堂も沈黙し、再開後は岩倉らのペースで会議は進み、徳川慶喜の辞官納地が決定された。しかし翌日から、土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図り、徳川慶喜は大阪城で外国公使と会談、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させるなど、朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。
これに焦った薩摩藩では、江戸で騒乱を起こす作戦に出た。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失し、薩摩に通じた奥女中の放火と噂された。その他いくつもの薩摩藩が関与したとされる騒擾が起こると、幕府側は江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)反撃に出て、江戸において幕府側と薩摩藩が事実上の交戦状態に入ったとみなされた。
一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。止むを得ず慶喜は、朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢を京都へ向け行軍させた。
両軍勢は鳥羽・伏見で対峙するが、必ずしも戦闘の指令は出ていなかった。しかし、慶応4(1868)年1月3日、幕府側は薩摩兵の挑発に乗って、偶発的な状況で「鳥羽・伏見の戦い」が始まる。以後、一連の「戊辰戦争」が各地で展開されることになる。
(この時期の出来事)
*1867.1.11/ 遣欧特使徳川昭武らが、パリ万国博参加のため横浜を出港する。
*1867.2.27/ フランス・パリで万国博覧会が開催され、日本の幕府は浮世絵などを出品し、茶店では芸者に接待させる。
*1867.5.24/ 将軍慶喜が、兵庫開港の勅許を受ける。
*1867.7.-/ 三河で民衆が狂喜乱舞する「ええじゃないか」が始まり、やがて全国に広まる。
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