◎薩長同盟と幕府の権威失墜(1866年/慶応2年)
*1866.1.21/ 薩摩藩邸(小松帯刀邸)において、坂本龍馬らの斡旋で、木戸孝允と西郷隆盛が「薩長同盟」を密約する。
*1866.4.14/ 薩摩藩士大久保利通が、長州征伐における薩摩藩出兵を拒否する旨の書を、幕府老中に提出する。
*1866.6.7/ 幕府の軍艦が、長州藩領の周防大島を砲撃し、「第2次長州征伐」が開始される。
*1866.7.20/ 将軍家茂(21)が、長州征伐の指揮のため滞在する大阪城中で病死。
*1866.8.1/ 長州勢が、小倉城を占領する。
*1866.8.20/ 家茂の喪を発し、一橋慶喜の徳川宗家相続を発表、慶喜は朝廷に働きかけ休戦の勅を求める。
*1866.8.21/ 征長の休戦勅命が下る。
*1866.12.5/ 徳川慶喜が、第15代征夷大将軍に就任する。
*1866.12.25/ 孝明天皇(36)が急死する。
<薩長同盟>


同盟の内容は、直接の討幕にはまったく触れられていない。幕府による長州藩処分問題に関して、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、直接対抗する相手は、当時京都政局を制圧していたいわゆる「一会桑政権」、すなわち一橋慶喜・松平容保(会津藩)・松平定敬(桑名藩)の3者であった。一橋慶喜は禁裏御守衛総督という立場であったが、固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的には会津・桑名両藩が担当していた。
<第2次長州征伐>


京都の禁裏御守衛総督一橋慶喜や、京都守護職の会津藩主松平容保は、朝廷・幕府・諸藩の美妙なパワーバランスの上に成り立っているとの現状認識の下、保守派大名や幕閣の影響力が大きい江戸城勢力から将軍徳川家茂を引き離して、継続して将軍の畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとしていた。
慶応2(1866)年1月、幕府は長州処分の最終案を奏上し、勅許が下された。しかし長州側は支藩藩主を交渉に当たらせ、言を左右させて従う気配を見せず、その間にも、着々と長州は挙藩一致体制を構築していった。幕府は5月29日の期限をきり、長州が従わない場合は攻撃をするとした。結局、慶応2(1866)年6月7日、幕府艦隊の周防大島への砲撃で戦端が開かれた。

周防大島はあくまでも緒戦であり、両軍が主力を投入した芸州口の戦いでは、5万の幕府軍に対し長州勢1,000名で防御戦を戦い、長州側が圧勝した。各方面ともに、長州勢の奮闘が目立ち、幕府側として動員された諸藩兵には厭戦気分が蔓延していった。そんな戦況不利の最中の7月20日、大坂城に陣取っていた家茂が死去する。徳川宗家を継いだ徳川慶喜は、小倉陥落の報を受けると、朝廷に働きかけ、休戦の勅命を得る。

慶喜政権とでも呼ぶべき徳川慶喜将軍の方針は、会津藩・桑名藩の軍事力のもと、朝廷との密接な連携を通じて幕政を維持しようというものであり、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、この後の幕末維新にかけて、政争は江戸ではなく京都・大坂を中心に展開された。

徳川慶喜が将軍に就任すると時を同じくして、弱冠14歳の明治天皇が皇位に即く。かくして、幕府・慶喜政権と薩長討幕勢力が朝廷をめぐって、激しい争奪を繰り返し、幕末の急展開に突入してゆく。
(この時期の出来事)
*1866.5.28/ 米価暴騰に怒った江戸の窮民たちが暴動を起こし、米屋などを打ち毀す。
*1866.5.-/ 石川島造船所で、初めて日本人が設計した蒸気軍艦千代田型が建造される。
*1866.6.-/ 秩父・多摩の幕府領で、農民1万人が米価暴騰などで一揆を起こす。(武州一揆)
*1866.10.20/ 横浜に火事が起き、町屋および外人居留地の多くが焼失する。(豚屋火事)
*1866.10.26/ 幕府洋学教育機関開成所の学生14名が、イギリス留学に横浜を発つ。
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