2020年7月26日日曜日

【19C_3 1864年】

【19th Century Chronicle 1864年】

◎幕末の政変(1864/元治1年)
*1864.1.15/ 将軍家茂が再度上洛する。
*1864.3.9/ 参与会議で一橋慶喜が横浜鎖港と攘夷を主張し、他の参与大名と対立し、参与会議は崩壊する。
*1864.6.5/ 新撰組が、京都三条池田屋で尊攘派を襲う。(池田屋騒動)
*1863.6.7/ 長州藩は、高杉晋作に「奇兵隊」を創設させる。
*1864.7.19/ 久坂玄瑞らが率いる長州藩兵が、京都御所の蛤御門をはじめ諸門に迫り、幕府軍と交戦する。(禁門[蛤御門]の変)
*1864.7.24/ 幕府は、長州追討の勅命を受けて、西国21藩に出兵を命じる。(第1次長州征伐)
*1864.8.5/ 英米仏蘭4国連合艦隊17隻が、下関攻撃を開始する。(四国艦隊下関砲撃事件)
*1864.11.11/ 長州藩が幕府に恭順の意を示し、禁門の変の責任者として3家老に切腹を命じる。
*1864.12.16/ 高杉晋作が遊撃隊を率いて下関を襲撃し、藩保守派から攘夷派が主導権を奪回する。

 文久3年(1863)8月18日の「八月十八日の政変」で長州藩や攘夷派公卿が失脚したあと、朝廷では公武合体派が主流となっていた。幕府と諸侯による参与会議が破綻すると、一橋慶喜は将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督という朝廷と密接な立場の職に就く。配下に京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らを従え、慶喜は京都にあって、水戸藩執行部や鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政(いずれも慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。


<池田屋騒動>
 一方、京の市中では、尊攘派が巻き返しを図り、長州藩をはじめとする各藩脱藩志士などが暗躍して、不穏な空気が流れていた。そんな折、京都守護職配下について市中警備を担った新撰組の近藤勇らは、長州藩ほかの尊王派が、御所を襲撃するなどの陰謀を察知した。

 元治元(1864)年6月5日、河原町・木屋町を虱潰しに探索していた近藤らは、木屋町三条の池田屋で謀議中の志士集団を発見、凄惨な斬り合いの末、9名を討ち取り4名を捕縛する戦果を上げた。翌朝の市中掃討でも20余名が捕縛され、京都の尊攘派は宮部鼎蔵ほかの志士を失い大打撃を受けた。この「池田屋騒動」で、新撰組は一躍勇名を馳せた。


<禁門(蛤御門)の変>
 一方長州藩では、参与会議崩壊を見て、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が強まっていた。そして6月5日、池田屋事件の一報がもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いた。慎重派の周布政之助、高杉晋作、久坂玄瑞らは藩論の沈静化に努めるが、進発派三家老らが「藩主の冤罪を帝に訴える」という名分をかかげ、挙兵を決意する。

 元治元(1864)年6月4日、長州で、進発令が発せられると、久坂玄瑞は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて上洛し、山崎天王山・嵯峨天竜寺・伏見長州屋敷に分かれて陣容を構えた。6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奏上するが拒絶され、長州兵に退去命令が出される。7月17日、男山八幡宮の本営で長州勢により最後の大会議が開かれ、久坂は退去命令に従うべきと主張したが、来島、真木らの強硬論に押されやむなく挙兵する。


 元治元(1864)年7月19日、御所の西辺の蛤御門付近で、長州藩兵と御所警護の会津・桑名藩兵とが衝突、来島隊は中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると敗退し、来島又兵衛は敗死。真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知るが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし御門を破れず、止むを得ず久坂玄瑞らは、朝廷への嘆願を要請するため鷹司邸に侵入するも、願いはかなえられず自害して果てた。

 帰趨が決した後、長州藩邸付近や堺町御門付近から出火した大火は、「どんどん焼け」と呼ばれ、京都市街を焼き尽くした。生き残った長州勢はめいめいに落ち延び、大阪や播磨方面に撤退した。主戦派であった真木和泉は天王山に立て籠もったが、会津藩と新撰組に攻め立てられ、自爆して果てた。


<第1次長州征伐>
 御所に向かって発砲した長州藩は朝敵とされ、朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。元治元(1864)年7月24日、それを受けて幕府は、西国21藩に出兵を命じて、「第1次長州征伐」が開始される。征長総督に尾張藩元藩主徳川慶勝が任命され、最終的に西国諸藩など35藩、総勢15万人の征長軍が動員された。

 10月22日、大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。征長軍で重要な戦力を占める薩摩藩からは、西郷隆盛が参謀格で長州側との交渉役を担当することになった。元治1(1864)年11月11日、長州藩は、禁門の変を主導した三家老の切腹と四参謀の斬首によって恭順の意を示し、長州落ちしていた尊攘派の五卿は九州の諸藩の預かりで決着を見た。


 福岡藩の預かりとなった五卿の一人、三条実美は、勅命であれば受け入れるとしたが、正規藩士ではない諸隊及び脱藩浪士らからは騒擾が起きる可能性があると語った。諸隊とは奇兵隊、遊撃隊、八幡隊、御楯隊、南園隊など藩の正規兵と異なる軍隊であり、藩論に関わらず独自の指揮系統を持つ部隊であった。


<長州藩・元治の内乱>
 長州藩内では禁門の変の前から、正義派(改革派)と俗論党(保守派)の主導権争いが展開されていた。正義派が主導した禁門の変に敗北すると、第1次征長に面して、俗論党の椋梨藤太らが幕府への完全恭順を訴え、正義派の周布政之助を失脚させ、三家老を切腹させて幕府への恭順を示した。奇兵隊はじめ諸隊には解散令が出され、政敵であった周布を自害へと追い込み、正義派を大量に処刑していった。


 萩藩庁は椋梨らの俗論党恭順派が支配したが、正義派に近かった諸隊は、長州征討軍の九州小倉副総督府と萩藩庁の間の防衛として、長府(下関)に陣取っており、武備恭順を主張していた。福岡に退避していた高杉晋作は、急遽下関へ帰還し、即時挙兵を説いたが諸隊は決起しなかった。元治元(1864)年12月16日、長府に集まった高杉と力士隊(総督伊藤博文)、遊撃隊(総督河瀬真孝)らは功山寺で挙兵する(元治の内乱)。

 藩内クーデターの勃発に、萩政庁は諸隊を敵として協力を禁じる布告を出したため、12月18日、静観していた山縣有朋率いる奇兵隊など諸隊も決起する。萩からの討伐軍に対し、山縣の奇兵隊などは秋吉台周辺で激しい戦闘を繰り返す。諸隊は山口へ入り、萩からは討伐軍に対して撤退命令が出されて、元治2(1865)年1月28日までの休戦協定が結ばれた。


 ところが、その後に俗論党(選鋒隊)による暗殺事件などにより、俗論党への排斥運動が高まり、2月14日、諸隊は萩に入り、俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。圧倒的に不利とされた高杉晋作らの正義派は、あらためて藩政の主導権を握った。


(この時期の出来事)
*1864.3.22/ フランスの日本駐在公使として、レオン・ロッシュが着任、幕府側の支援にまわりイギリスと対立する。
*1864.3.27/ 水戸藩士武田耕雲斎らが、攘夷を唱えて筑波山で挙兵する。(天狗党の乱)
*1864.5.21/ 幕府は勝海舟を頭取として、神戸に海軍操練所を設置する。
*1864.7.11/ 京都で、佐久間象山が攘夷派に暗殺される。
*1864.11.10/ 幕府が、フランス公使ロッシュに横須賀製鉄所やドック建設の援助を求める。
*1864.12.16/ 水戸天狗党が加賀藩に投降し、以後、水戸藩の攘夷論は発言力を失う。

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