2020年7月25日土曜日

【19C_3 1863年】

【19th Century Chronicle 1863年】

◎幕末の政変(1863/文久3)
*1863.3.4/ 将軍家茂が上洛し、二条城に入る。
*1863.4.20/ 上洛中の将軍家茂は、朝廷に約束した攘夷の実行期日を5月10日と伝える。
*1863.5.10/ 長州藩は、約束期日を待ち受けて攘夷を実行、馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船を砲撃する。(下関事件)
*1863.7.2/ 薩摩藩がイギリス艦隊7隻と戦う。(薩英戦争)
*1863.8.18/ 薩摩・会津両藩が宮中の尊攘派排撃を企て、宮中クーデターで尊攘派の公家を京都から排除する。(八月八日の政変)
*1863.8.19/ 宮中政変で追放された三条実美ら攘夷派7公卿が長州に下る。(七卿落ち)
*1863.12.30/ 公武合体を推進するため、朝廷は幕臣と有力大名を朝議参与に任じて「参与会議」を実現させようとするが、すぐに瓦解する。

<下関事件>
 京都では各地から尊攘派志士が集結し、天誅と称してテロを繰り返した。朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら急進攘夷派が実権を握った。また、尊皇攘夷の急進派が集う場となっていた京都学習院でも、そこに出仕していた尊攘派の真木和泉(久留米藩士)や久坂玄瑞(長州藩士)らが朝廷に影響力を持つようになっていた。

 このような情勢のもと、孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂・石清水への行幸などが相次ぎ、ついには5月10日を攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂に約束させるに至った。将軍家茂は上洛、二条城に入り、朝廷に攘夷の実行期日を伝えたが、将軍後見職一橋慶喜は、期日が来てもこちらからは仕掛けないように通達していた。


 文久3(1963)年5月10日、急進攘夷派が支配する長州では、当日を待ち受けたように下関で外国船に無差別砲撃を加える。しかし、アメリカやフランスの艦隊の報復攻撃で、長州藩は徹底的な敗北を蒙る。しかし他藩はこれに傍観を決め込み、攘夷実行を約束した将軍家茂も江戸に帰ってしまった。

 元治元(1864)年8月8日、長州藩は講和使節に高杉晋作を任じ、高杉は家老を名乗り談判に臨んだ。高杉は要求をほぼ受け入れたが、賠償金の支払いは、幕府の命令に従っただけだと毅然と突っぱねた。

<薩英戦争>
 一方、文久3(1963)年7月、薩摩では、生麦事件の補償をめぐって艦隊の力で迫るイギリス軍と、攘夷実行の名目のもとに実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突する。戦闘で鹿児島城下は壊滅的な被害を受けたが、英艦船も大きな損傷を受け、相互に実力を確認することになり、一転して両者が接近する契機となった。

 イギリス艦隊の艦砲射撃により、薩摩側は、砲台など軍事施設以外にも、鹿児島城下市街地も甚大な被害を受けたが、イギリス艦隊も大きな損害を受け、死傷者は60人に及ぶなど、準備不足で退去を余儀なくされた。和睦交渉でも薩摩側は一歩も引かず、イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになった。


<八月八日の政変・七卿落ち>
 孝明天皇は熱心な攘夷主義者ではあったが、朝廷における急進的な尊攘派勢力の討幕の動きには不満を持っていた。会津藩や薩摩藩ら公武合体派は、朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策し、8月15日、京都守護職松平容保の了解のもと、中川宮が参内して天皇から密命を得た。

 文久3(1963)年8月18日早朝、会津藩兵に加えて薩摩藩兵らが御所九門を封鎖、三条実美ら尊攘急進派公家に禁足を命じ、国事参政の職を解いた。諸侯の参内をまって開かれた朝議で、大和行幸の延期・尊攘派公家や長州藩主毛利敬親らの処罰等を決議した。長州藩は御所警備の任を解かれ京都を追われた。翌19日、長州藩兵千余人とともに、失脚した三条実美らの7公卿は長州へと下った。


<参与会議>
 政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮した。10月には島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永(春獄)・山内豊重(容堂)ら公武合体派大名もこれに続き、翌文久4(1964)年1月にかけて島津久光・松平慶永・山内豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立した。朝廷内においては鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わった。


 しかし、将軍家茂が再上洛し開かれた参与会議は、元治元(1864)年3月、幕府を代表する将軍後見職一橋慶喜の意向と諸大名の思惑が対立し、もろくも瓦解する。一方で、政変に敗れた長州藩などの尊攘派は、京都で失地回復を狙って暗躍し、京都における政情は混迷を極める。そして、同年6月の池田屋事件をきっかけに、長州の急進派は京都へ攻め上がり、元治元(1864)年7月19日「禁門(蛤御門)の変」で会津・薩摩らと戦火を交えることとなる。



(この時期の出来事)
*1863.3.13/ 将軍上洛の警護の命を受けて京に入っていた浪士組だが、率いる清河八郎の方針急変更により、幕府は江戸に呼び戻す。分裂し残留した芹沢鴨や近藤勇らは、京都守護職の支配下に入り「新撰組」を結成、京都の治安維持にあたることになった。
*1863.5.12/ 伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が、イギリス留学のために横浜から密出国する。
*1863.5.20/ 尊攘派の公卿姉小路公知が暗殺される。
*1863.8.17/ 中山忠光ら天誅組が、大和五条代官所を襲う。(天誅組の乱) 
*1863.9.21/ 土佐藩では、武市瑞山ら尊皇派を投獄して「土佐勤皇党」を崩壊させる。

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