◎幕末のテロリズム(1861-62)
*1861.5.28/ 水戸藩浪士が、イギリス仮公使館にオールコック公使を襲い、書記官らを負傷させる。
*1862.1.15/ 江戸城坂下門外で、老中「安藤信正」が水戸藩浪士らに襲われ負傷する。安藤はこの事件の失態により、4月に老中を罷免される。「坂下門外の変」
*1862.4.8/ 開国を主張する土佐藩参政「吉田東洋」が暗殺される。
*1862.4.23/ 伏見の寺田屋で、討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らが、島津久光の命により粛清される。(寺田屋騒動)
*1862.7.20/ 九条家家臣島田左近が尊攘派に暗殺され、天誅と称して島田の首は鴨川四条河原にさらされた。
*1862.12.12/ 長州藩高杉晋作らが、品川に建設中のイギリス公使館に放火して炎上させる。
*1862.12.21/江戸 和学講習所の塙次郎が、天皇廃立策動の疑いで、長州藩伊藤博文らに暗殺される。




文久2(1862)4月、薩摩藩国父(藩主の父)島津久光は、多数の藩兵を率いて上洛、朝廷に幕政改革の意見書を朝廷に提出した。尊攘派は久光に期待したが、久光自身は公武合体によって幕政に秩序をもたらそうという考えだった。有馬新七ら薩摩藩の過激な尊攘派は、関白九条尚忠らを襲って、一気に久光に蜂起を促す謀議をめぐらし、京都伏見の船宿寺田屋に集結していた。

久光の上洛に際して、西郷隆盛は謹慎中の奄美大島から呼び戻され、先行して下関待機を命じられていたが、京での過激派薩摩藩士らの動向を聞きつけ、志士たちの動きを抑えようと京に向った。しかし久光は、西郷が志士を煽動していると聞いて激昂、西郷を捕縛させ薩摩に護送させた。西郷は、結果的に寺田屋騒動に関わることはなかったが、沖永良部島へ遠島になった。

また朝廷においても、前関白九条尚忠の下で攘夷派弾圧につとめ、和宮降嫁で公武合体をすすめた九条家家臣島田左近が、尊攘派に暗殺され、天誅と称して島田の首は鴨川の四条河原にさらされた。下手人は、人斬り新兵衛こと薩摩藩士田中新兵衛とされる。以後、朝廷では尊攘派の圧力が増し、公武合体派の岩倉具視らが追放され、九条尚忠も謹慎となった。そして島田暗殺以降、天誅と称するテロが頻発し、京の街の治安は極端に乱れた。
◎幕末の幕府・朝廷・諸藩の動向(1861-62)
*1861.5.15/ 長州藩直目付長井雅楽(うた)が上洛し、航海遠略策を朝廷に上奏する。
*1861.11.15/ 仁孝天皇の皇女「和宮」が、徳川家茂に降嫁する。これは、あからさまな公武合体のための政略結婚とされた。
*1862.4.16/ 薩摩藩国父 島津久光が藩兵1,000人を率いて上洛し、幕政改革の意見書を朝廷に提出する。
*1862.6.10/ 勅使大原重徳が江戸城で将軍家茂に接見し、一橋慶喜、松平慶永登用の勅旨を伝える。
*1862.8.20/ 朝廷は尊攘派の圧力によって、公武合体を策したとして岩倉具視らを処罰する。
*1862.8.21/ 島津久光が江戸からの帰途、武蔵国の生麦村付近で、行列を横切ったイギリス人4人に、随行の藩士が斬りつけ殺傷する。(生麦事件)
*1862.閏8.1/ 初代京都守護職に、会津藩主松平容保が任命される。
*1862.11.27/ 勅使三条実美らが江戸城で将軍家茂に対面、攘夷督促の勅書を渡す。

和宮降嫁が成った翌 文久2(1862)年1月、「坂下門外の変」で安藤信正が襲われ、それが原因で失脚、久世広周も罷免される。2月に和宮と家茂の婚姻の儀が行われたが、内親王の和宮が征夷大将軍の家茂より高い身分であるため、和宮が主で家茂が客という逆転した立場で行われ、これは将軍の権威を下げる形となった。

改革案は、雄藩5藩による幕政参与と将軍家茂上洛での国事審議、そして一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任じ幕政に参画させるというものであった。朝廷は勅旨大原重徳を江戸に派遣し、久光は勅使警護を兼ねて随従を命じられる。6月に江戸へ到着すると、勅使とともに幕閣との交渉に当たり、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。

久光の一行はそのまま京都に着くと、島津の殿様による攘夷の実行だと尊王攘夷派が沸き立ったが、久光は秩序を重んじた公武合体が真意であり、事件をきっかけに朝廷が攘夷一色に染まってしまったのには困惑するしかなかった。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、そのまま京都を発って鹿児島に戻る。

朝廷内部でも、激しく勢力関係が移り変わった。文久1(1861)年5月、長州藩主毛利慶親の命を受けて直目付長井雅楽(うた)が上洛し、「航海遠略策」を朝廷に上奏する。これは頻発する異人斬りなど単純過激な破約攘夷を廃して、いったん開国して国力を付けてから、将来的な「大攘夷」を提唱するもので、実質的には朝廷主導の公武合体によって国力を高めようとするものであった。

朝廷内でも尊攘派の強い圧力に押されて、和宮降嫁を進めた岩倉具視らの公家を「四奸二嬪」として処分することになる。岩倉具視は幕末維新では尊攘派の公家として著名で、この時は朝廷の権威を高めるために努めただけだが、尊攘派からは佐幕派と見なされ排斥された。孝明天皇を筆頭に、攘夷一色に固まった朝廷は、勅使に三条実美らを立て、文久2(1862)年11月、幕府が先に約束した破約攘夷の実行を督促し、将軍家茂が攘夷実行について説明のため上洛するという旨の返答を得た。
大老井伊直弼による幕府の武断政治は、桜田門外で破局を迎え、以後、目まぐるしく情勢が変わる動乱の幕末へと流れ込んでゆく。異人斬りというような直情的な攘夷テロルは、次第に「尊王攘夷」というイデオロギーに収斂してゆき、一方の「佐幕派」や「公武合体派」との対立は過激になり、将軍のお膝元江戸ではテロが頻発し、帝のいます京都でも過激な尊攘派が上洛し、市中は無法地帯と化しつつあった。
(この時期の出来事)
*1861.2.3/ ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航、占領を目的に滞泊する。
*1861.8.15/ ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスの干渉などにより、対馬から退去する。
*1861.12.23/ 幕府の遣欧使節が、ヨーロッパに向けて品川を出港する。使節竹内保徳の随行員として、福沢諭吉・寺島宗徳・福地桜痴らが同行した。
*1862.9.11/ 幕府初の留学生として、榎本武揚・西周(あまね)らが、長崎からオランダへ向かう。
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