2020年7月24日金曜日

【19C_3 1861-1862年】

【19th Century Chronicle 1861-1862年】

◎幕末のテロリズム(1861-62)
*1861.5.28/ 水戸藩浪士が、イギリス仮公使館にオールコック公使を襲い、書記官らを負傷させる。
*1862.1.15/ 江戸城坂下門外で、老中「安藤信正」が水戸藩浪士らに襲われ負傷する。安藤はこの事件の失態により、4月に老中を罷免される。「坂下門外の変」
*1862.4.8/ 開国を主張する土佐藩参政「吉田東洋」が暗殺される。
*1862.4.23/ 伏見の寺田屋で、討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らが、島津久光の命により粛清される。(寺田屋騒動)
*1862.7.20/ 九条家家臣島田左近が尊攘派に暗殺され、天誅と称して島田の首は鴨川四条河原にさらされた。
*1862.12.12/ 長州藩高杉晋作らが、品川に建設中のイギリス公使館に放火して炎上させる。
*1862.12.21/江戸 和学講習所の塙次郎が、天皇廃立策動の疑いで、長州藩伊藤博文らに暗殺される。

 西欧諸国と通商条約が結ばれ、開港された各地に外人居留地が出来ると、攘夷と称して外国人外交官らを襲う事件が頻発した。万延1(1860)年12月、ハリスの通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺された。さらに翌文久1(1861)年5月には、イギリス公使オールコックが狙われ、水戸藩浪士によって書記官らが負傷させられた。

 その後も幕末にいたるまで外国人殺傷事件は何度も発生するが、一方で、井伊直弼暗殺以降、急進化した尊攘派などによって、国内の政争でもテロが頻発するようになった。文久2(1862)年1月、井伊直弼のあとを受けて幕政を仕切っていた「安藤信正」が、坂下門外で水戸藩浪士らに斬りつけられ、失脚する。この事件により幕府の威信はさらに低下し、幕政を取り仕切れる人物もいなくなった(坂下門外の変)。


 各地の雄藩でも藩政の主導権をめぐって、尊攘派によるテロが横行した。土佐藩では、公武合体派の藩主山内豊信(容堂)の下で、開国を進め藩政の改革を行っていた「吉田東洋」が、武市半平太(瑞山)の意を受けた土佐勤王党の藩士に暗殺された。これにより武市ら土佐勤皇党が藩論を支配するようになるが、翌年の8月18日の政変で勤王派が急速に衰退すると、吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士らを中心とする急進派の天誅組が挙兵するも、壊滅する。

 情勢を見た山内容堂は、吉田東洋暗殺の犯人追及などを強め、土佐勤王党の弾圧に乗り出した。瑞山らは捕縛されても否認し続けたが、人斬り以蔵と呼ばれ、武市の下で天誅を主導した岡田以蔵が捕らえられると、拷問でいとも簡単に同士の名前をしゃべり、土佐勤皇党は壊滅に追込まれ、武市瑞山は切腹を命じられる。


 文久2(1862)4月、薩摩藩国父(藩主の父)島津久光は、多数の藩兵を率いて上洛、朝廷に幕政改革の意見書を朝廷に提出した。尊攘派は久光に期待したが、久光自身は公武合体によって幕政に秩序をもたらそうという考えだった。有馬新七ら薩摩藩の過激な尊攘派は、関白九条尚忠らを襲って、一気に久光に蜂起を促す謀議をめぐらし、京都伏見の船宿寺田屋に集結していた。

 志士暴発の噂を聞いていた久光は、藩士を抑えようと試みたが失敗した。久光は、志士の決起が迫ったとの知らせを聞き、鎮撫使として剣術に優れた藩士8名を選び、説得がかなわない場合は上意討ちも止むを得ずとして派遣した。寺田屋一階で押し問答になったが、いきなり派遣藩士が斬りかかり、同じ薩摩藩士の凄惨な同士討ちとなった。


 久光の上洛に際して、西郷隆盛は謹慎中の奄美大島から呼び戻され、先行して下関待機を命じられていたが、京での過激派薩摩藩士らの動向を聞きつけ、志士たちの動きを抑えようと京に向った。しかし久光は、西郷が志士を煽動していると聞いて激昂、西郷を捕縛させ薩摩に護送させた。西郷は、結果的に寺田屋騒動に関わることはなかったが、沖永良部島へ遠島になった。

 坂下門外の変で安藤信正が失脚すると、長州藩でも攘夷派が勢力を盛り返し、守旧派とされた長井雅樂は、失脚し切腹となった。以後、第1次長州征伐にいたるまで、長州藩は尊王攘夷派が支配的となる。その間、血気盛んな高杉晋作らは、品川に建設中のイギリス公使館に放火し、伊藤博文らは、天皇廃立策動をしたとして和学講習所の塙次郎を暗殺する。かくして、長州藩の志士たちは、京に上って朝廷工作などに暗躍する。


 また朝廷においても、前関白九条尚忠の下で攘夷派弾圧につとめ、和宮降嫁で公武合体をすすめた九条家家臣島田左近が、尊攘派に暗殺され、天誅と称して島田の首は鴨川の四条河原にさらされた。下手人は、人斬り新兵衛こと薩摩藩士田中新兵衛とされる。以後、朝廷では尊攘派の圧力が増し、公武合体派の岩倉具視らが追放され、九条尚忠も謹慎となった。そして島田暗殺以降、天誅と称するテロが頻発し、京の街の治安は極端に乱れた。


◎幕末の幕府・朝廷・諸藩の動向(1861-62)
*1861.5.15/ 長州藩直目付長井雅楽(うた)が上洛し、航海遠略策を朝廷に上奏する。
*1861.11.15/ 仁孝天皇の皇女「和宮」が、徳川家茂に降嫁する。これは、あからさまな公武合体のための政略結婚とされた。
*1862.4.16/ 薩摩藩国父 島津久光が藩兵1,000人を率いて上洛し、幕政改革の意見書を朝廷に提出する。
*1862.6.10/ 勅使大原重徳が江戸城で将軍家茂に接見し、一橋慶喜、松平慶永登用の勅旨を伝える。
*1862.8.20/ 朝廷は尊攘派の圧力によって、公武合体を策したとして岩倉具視らを処罰する。
*1862.8.21/ 島津久光が江戸からの帰途、武蔵国の生麦村付近で、行列を横切ったイギリス人4人に、随行の藩士が斬りつけ殺傷する。(生麦事件)
*1862.閏8.1/ 初代京都守護職に、会津藩主松平容保が任命される。
*1862.11.27/ 勅使三条実美らが江戸城で将軍家茂に対面、攘夷督促の勅書を渡す。

 安政7(1860)年3月、「桜田門外の変」で大老井伊直弼が暗殺されたあと、老中安藤信正が、久世広周とともに幕政の中心を担った。安藤は、もはや強引な手法で幕府の立て直しは無理と考え、諸藩の意見も聞き入れて、幕府主導での「公武合体」を目指した。そして朝廷の公武合体勢力と連携し、仁孝天皇の皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させることで公武合体を進めた。

 和宮降嫁が成った翌 文久2(1862)年1月、「坂下門外の変」で安藤信正が襲われ、それが原因で失脚、久世広周も罷免される。2月に和宮と家茂の婚姻の儀が行われたが、内親王の和宮が征夷大将軍の家茂より高い身分であるため、和宮が主で家茂が客という逆転した立場で行われ、これは将軍の権威を下げる形となった。


 このような状況下で、京都に尊攘派が集結したため、朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼した。これに応えて久光は、藩士1,000人を率いて上洛、4月に京都に着いた久光は、伏見寺田屋で不穏な密議をする自藩の尊攘派藩士などを粛清(寺田屋騒動)した。朝廷の信頼を得た久光は、自身の幕政改革案を朝廷に上奏した。

 改革案は、雄藩5藩による幕政参与と将軍家茂上洛での国事審議、そして一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任じ幕政に参画させるというものであった。朝廷は勅旨大原重徳を江戸に派遣し、久光は勅使警護を兼ねて随従を命じられる。6月に江戸へ到着すると、勅使とともに幕閣との交渉に当たり、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。


 江戸からの帰路、文久2(1862)年8月21日、久光の一行が武蔵国の生麦村に差しかかった時、行列に乱入した騎馬の4人のイギリス人を、供回りの藩士たちが殺傷する事件が起こった(生麦事件)。尊王攘夷運動の高まりの中で、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3(1863)年7月には薩英戦争が起こることになる。

 久光の一行はそのまま京都に着くと、島津の殿様による攘夷の実行だと尊王攘夷派が沸き立ったが、久光は秩序を重んじた公武合体が真意であり、事件をきっかけに朝廷が攘夷一色に染まってしまったのには困惑するしかなかった。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、そのまま京都を発って鹿児島に戻る。


 朝廷が島津久光の上洛時に京都市中の警備を依頼したため、幕府の京都所司代は有名無実化していたが、文久2(1862)年8月、徳川家への忠心の高い会津藩主「松平容保」に、初代京都守護職に就任の命が下る。以降、容保は過激な尊攘派が跋扈し、極度に治安が低下した京の街の治安維持に腐心する。

 朝廷内部でも、激しく勢力関係が移り変わった。文久1(1861)年5月、長州藩主毛利慶親の命を受けて直目付長井雅楽(うた)が上洛し、「航海遠略策」を朝廷に上奏する。これは頻発する異人斬りなど単純過激な破約攘夷を廃して、いったん開国して国力を付けてから、将来的な「大攘夷」を提唱するもので、実質的には朝廷主導の公武合体によって国力を高めようとするものであった。


 これは朝廷を喜ばせ、幕府も受け入れ可能な策として、長州藩に公武周旋役を任せる命が下った。ところが幕府側の推進役老中安藤信正が坂下門外の変で失脚、やむなく長井は江戸をたち京に上るが、こちらでは尊攘派が勢力を増しており、長州藩内でも、久坂玄瑞ら尊攘派が藩論を転覆させ、長井は失脚、後日切腹となる。以後、長州藩は尊王攘夷の最過激派として、「八月十八日の政変」まで京都の政局を主導することになる。

 朝廷内でも尊攘派の強い圧力に押されて、和宮降嫁を進めた岩倉具視らの公家を「四奸二嬪」として処分することになる。岩倉具視は幕末維新では尊攘派の公家として著名で、この時は朝廷の権威を高めるために努めただけだが、尊攘派からは佐幕派と見なされ排斥された。孝明天皇を筆頭に、攘夷一色に固まった朝廷は、勅使に三条実美らを立て、文久2(1862)年11月、幕府が先に約束した破約攘夷の実行を督促し、将軍家茂が攘夷実行について説明のため上洛するという旨の返答を得た。


 大老井伊直弼による幕府の武断政治は、桜田門外で破局を迎え、以後、目まぐるしく情勢が変わる動乱の幕末へと流れ込んでゆく。異人斬りというような直情的な攘夷テロルは、次第に「尊王攘夷」というイデオロギーに収斂してゆき、一方の「佐幕派」や「公武合体派」との対立は過激になり、将軍のお膝元江戸ではテロが頻発し、帝のいます京都でも過激な尊攘派が上洛し、市中は無法地帯と化しつつあった。


(この時期の出来事)
*1861.2.3/ ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航、占領を目的に滞泊する。
*1861.8.15/ ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスの干渉などにより、対馬から退去する。
*1861.12.23/ 幕府の遣欧使節が、ヨーロッパに向けて品川を出港する。使節竹内保徳の随行員として、福沢諭吉・寺島宗徳・福地桜痴らが同行した。
*1862.9.11/ 幕府初の留学生として、榎本武揚・西周(あまね)らが、長崎からオランダへ向かう。

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