◎安政の大獄
*1858.4.23/ 彦根藩主「井伊直弼」が、幕府大老に就任する。
*1858.6.19/ 幕府が、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1858.6.25/ 幕府は将軍家定の後継を、13歳の紀伊藩主徳川慶福(14代将軍家茂)と定める。
*1858.7.16/ 薩摩藩主島津斉彬(50)は、井伊直弼の措置に憤懣を抱き、藩兵5,000名を率いて朝廷に訴えるため上京しようとするが、直前に急死する。
*1858.7.5/ 幕府は将軍継嗣問題をめぐり、南紀派の大老井伊直弼が、徳川斉昭・松平慶永ら対立した一橋派諸侯に謹慎を命じる。
*1858.8.8/ 強固な攘夷論者の孝明天皇は、条約の無断調印と徳川(水戸)斉昭らの処罰に憤り、幕政改革を指示する密勅(戊午の密勅)を水戸藩に下す。
*1858.9.7/ 若狭小浜藩士梅田雲浜らが逮捕され、「安政の大獄」が開始される。
*1858.10.23/ 越前福井藩士橋本左内が、江戸で拘禁される。
*1859.8.27/ 幕府が、前水戸藩主徳川斉昭に国元永蟄居、水戸藩主徳川慶篤に差控、一橋慶喜に隠居謹慎を命じ、一橋派を処罰する。
*1859.10.7/ 幕府が、福井藩士橋本左内(26)、頼三樹三郎(35)に死罪を、その他多くの者に処罰を申し渡す。
*1859.10.27/ 幕府が、吉田松陰(30)に死罪、その他多くを処罰。
*1860.3.3/江戸 水戸浪士と薩摩浪士計18人が、大老井伊直弼を桜田門外で襲撃、殺害する。(桜田門外の変)

幕府では、勅許を受けに老中堀田正睦が京に上ったが、頑強な攘夷派の孝明天皇は勅許を許さず、その直後に大老に就任した井伊直弼は、勅許無きまま条約の締結を決定する。その一方で、南紀派に近しい彦根藩主井伊直弼は、前水戸藩主徳川斉昭の実子「一橋慶喜」を推す一橋派の開明藩主らの意向を拒否し、紀州藩主「徳川慶福(家茂)」を14代将軍に決定した。

一橋慶喜による幕政改革を期待していた薩摩藩主「島津斉彬」は、直弼に反発し、藩兵5,000人を率いて上洛し朝廷に訴え出ることを計画したが、直前に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。


こうした大老井伊直弼の政策は、尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。とりわけ、若年寄の安藤信正を水戸藩主徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促し、さもなくば水戸藩を改易するとまで迫ったことは、水戸藩の士民を憤激させた。水戸藩を脱藩した過激派浪士たちによって、直弼襲撃の謀議が繰り返され、その不穏な動きは幕府も関知していたので、大老の側近から警護の従士を増やすなどの勧めがあるも、井伊直弼は受け入れなかったという。

大老井伊直弼は、反動政治家として、政敵を粛清し独裁的な幕政運営を目指した、と考えれば事は簡単だが、それほど一筋縄では行かないものがある。井伊直弼が大老に就任した時、のっぴきならない問題が二つあった。まず米国ハリス総領事が強引に通商条約の締結を求めていたこと。そして病弱な将軍家定の継嗣決定がひっ迫していたこと。このような決断をできる人材が幕府中枢におらず、そこで井伊直弼が抜擢されたというような状況であった。
通商問題は、相手の力を見れば止むを得ないと(ほぼ誰もが)考えただろうが、予定した勅許が得られず、交渉現場担当者との行き違いなどもあり、やむなく無勅許での条約を進めることになった。これは大老が意図した手順と異なってしまい、徳川(水戸)斉昭ら改革派諸侯に介入する口実を与えてしまった。
将軍継嗣問題では、攘夷派の筆頭であった徳川斉昭の子で、改革派諸侯が推す一橋慶喜は英邁の声は高いが、その方針は不明で何をするかはいまだ分からない。しかも改革派諸侯は、彼を推し立てることで、幕政への介在を意図していることは間違いない。それよりは気心の知れた紀州藩で、年端のいかない藩主徳川慶福(家茂)の方がコントロールがきくと考え、強引に決定した。
この二つの決定により、その後の井伊大老の方向が決定づけられた。直弼は、幕府の体制立て直しには有力諸侯の協力が不可欠と考えていたが、それはあくまで幕府主導の下でなければならない。しかし徳川斉昭などは露骨に幕政に介在しようとし、それに島津斉彬や松平春嶽や山内容堂なども、一橋慶喜を擁立して、幕府への影響力を強化しようとしていた。
これらの諸侯は、京の朝廷を利用して幕政を変えようとし、その朝廷には強固な攘夷主義者孝明天皇が存在していた。そして彼等の庇護の下で、過激な攘夷派志士たちが暗躍しつつあった。二つの重要問題を決断した井伊直弼にとって、それが招来した状況の中では、さらに次の決断をせざるを得なかった。それは、反対派の弾圧であり徹底粛清であった。それが「安政の大獄」の実態であったのではなかろうか。
◎「日米修好通商条約」
*1856.8.5/ アメリカ駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
*1857.5.26/ 米国総領事ハリスが幕府と、9ヵ条の日米約定(下田協約)を締結する。
*1857.10.21/ 米総領事ハリスが、将軍家定に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書を提出する。
*1858.3.20/ 老中堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため入洛するも、朝廷に条約の勅許を拒否される。
*1858.6.19/ 幕府が勅許なしに、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1859.5.28/ 幕府が、神奈川・長崎・箱館の開港と、露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可する。

アメリカ側の要望に押しまくられながら、やっと条約の合意が得られるようになると、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく自ら上洛したが、朝廷の公家らの強硬な反対などで勅許を得られないまま江戸にもどる。堀田が上洛中に、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、以後、井伊が幕府を主導する。

この抗争鎮定のため、井伊は反対派の幕臣や志士・朝廷の公家衆を大量に処罰し「安政の大獄」が始まった。そして、朝廷を利用して幕府の改革をもとめる水戸斉昭など諸侯を謹慎蟄居などで排除した。これらの武断政治は大きな批判を呼び、政局は不穏となった。そして安政7(1860)年3月3日、水戸藩への処置に憤懣をもつ脱藩浪士たちにより、井伊直弼は桜田門外で襲われ暗殺される(桜田門外の変)。



さらに、不平等条約に必ず盛り込まれるのが「片務的最恵国待遇」であった。これはすでに日米和親条約に盛り込まれていたが、事後に他国がより有利な条約等を結んだ時には、それと同等の条件を提供することを義務付けたもので、為替変動や関税率など変動要因の大きい経済分野では重要な条項となる。外交に不慣れな当時の幕府には、はたしてそこまでの認識があったかどうかあやしい。
(この時期の出来事)
*1856.9.-/ 長州藩は、蟄居中の吉田松陰に、萩の松下村塾の主宰することを許可する。
*1857.10.16/ 福井藩主松平慶永(春嶽)らが、一橋慶喜を次期将軍に推奨し(一橋派)、紀州藩主徳川慶福を押す井伊直弼ら(南紀派)との対立構図が明かとなる。
*1858.10.26/ 徳川家茂(慶福)が征夷大将軍となり、第14代徳川将軍に就任する。
*1858.11.16/ 西郷隆盛と僧月照が入水、西郷は救助され、のち奄美大島に潜伏させられる。
*1858.12.5/ 長州藩は、藩老中襲撃を企てたとして、吉田松陰を投獄する。
*1860.1.19/ 幕府軍艦奉行木村喜毀・軍艦操練所頭取勝海舟ら90余名が、咸臨丸でアメリカに向けて浦賀を出帆する。
*1860.8.18/ 孝明天皇が、皇女和宮の降嫁勅許を幕府に内達する。
*1860.12.5/ アメリカ通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺される。
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