2020年7月22日水曜日

【19C_3 1851-1855年】

【19th Century Chronicle 1851-1855年】

◎島津斉彬と幕末の薩摩藩
*1851.2.-/ 島津斉彬が薩摩藩主となる。お由羅騒動に決着。
*1851.8.-/ 藩主島津斉彬が鹿児島に精錬所を設置する。
*1852.-.-/ 藩主島津斉彬が、反射炉の築造を開始する。
*1855.8.22/ 薩摩藩が、品川沖で初の国産蒸気船雲行丸の運転を試みる。

 薩摩藩の第11代藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、幕末に向けて、いち早く薩摩藩の近代化・富国強兵に勤め、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らとともに「幕末の四賢侯」とされる。斉彬は、薩摩藩の第10代藩主「島津斉興」の長男として、正室弥姫(周子)によって産まれ、その素性により、早くから斉興の世子とされた。

 しかし斉興は、斉彬が元服しても一向に藩主の座を譲ろうとしなかった。斉興は、蘭癖と言われた祖父の8代藩主島津重豪の放漫藩経営で、薩摩藩が抱えた膨大な負債を、調所広郷を登用して、やっと健在な藩財政に戻したところだった。世子とした斉彬もまた、洋学に造詣が深く、西洋の技術を積極的に導入しようとしたため、これを祖父と同様の蘭癖とみなし、藩財政を破綻させるのではないかと危惧したためとされる。


 しかも、斉興の寵愛を得た側室「お由羅の方」が、自腹の「島津久光」を藩主に擁立しようと画策した。かくして、久光を擁立しようとする斉興・お由羅派と、藩の革新を期待する斉彬擁立派に分かれて、薩摩藩を二分する御家騒動となった。これが世にいう「お由羅騒動(高崎崩れ)」である。

 家老 調所広郷も、健全藩財政維持の立場から斉興側に付いたが、斉彬派の一部は幕府老中阿部正弘に、薩摩藩の琉球密貿易の情報を流し、阿部に問責された調所広郷は、責任を取って江戸藩邸で自殺する事件が起こった。また、斉彬の継嗣らが夭折したことで、お由羅の方が呪詛して殺したという噂がながれ、それに対抗して斉彬派は、久光・お由羅を暗殺しようと謀議したとされ、斉彬派の重鎮らが一斉逮捕された。


 弾圧で孤立したかに見えた斉彬だが、一部藩士が斉彬縁戚の福岡藩主黒田斉溥のもとに逃れ、その取り成しで、幕府老中阿部正弘らに状況が伝えられ、幕府が介在して収拾にのりだした。斉彬に理解があった阿部らが差配して、将軍家慶からやんわりと斉興の隠居を勧める処置(茶器を贈り、隠居して茶でも飲んでいろとした)が採られ、遂に斉興は42年勤めた藩主の座を斉彬に譲り、斉彬が第11代藩主に就任した。

 島津斉彬が藩主に就任した時、すでに40歳を過ぎており、当時なら世子に座を譲って隠居してもおかしくない年齢であった。藩主に就任するや、一気に藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、積極的に様式技術を導入して、のちの幕末における薩摩藩の存在を示す実力を養成した。


 また、下士階級だった西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕末の政局に大きく関与する人材を育成した。斉彬は、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝ら、幕政に影響力をもつ実力藩主らとも交流を持ち、幕府老中阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。

 斉彬は取り巻く諸外国の情勢を熟知しており、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。しかし、安政4(1857)年、阿部正弘が没すると、翌年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。第13代将軍徳川家定は虚弱で病弱で嗣子がなく、斉彬を含む四賢侯や斉昭らは、次期将軍として徳川(水戸)斉昭の子の「一橋慶喜」を推した。



 一方、大老「井伊直弼」は紀州藩主徳川慶福を推した。直弼は大老の強権を発動し、反対派を徹底弾圧する「安政の大獄」を開始し、その結果、慶福が第14代将軍「徳川家茂」となり、斉彬らは敗れた。安政の大獄は、将軍継嗣問題だけではなく、無勅許で結んだ日米通商条約調印への批判派への弾圧の要素が強かった。

 安政の大獄では、継嗣問題で敗れた徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂など諸大名が、隠居・蟄居・謹慎などに処せられ、無勅許条約締結を批判する尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らは、斬罪などの極刑に処せられた。島津斉彬は直接の処罰は受けなかったが、直弼の専横に反発し、藩兵5,000人を率いて上洛し、朝廷に訴える計画をするも、出兵直前に鹿児島で急死し出兵は頓挫する。


 斉彬死後、薩摩藩の藩主は島津久光の実子忠義が藩主とされ、久光は後見役となったが、復権した斉興が生前は実権を掌握し、安政6(1859)年の斉興の死後は、久光が実質的な藩政を掌握した。島津斉彬が藩主であったのは実質7年であったが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期の薩摩藩を仕切り、その遺志を継いだ形となった。


◎黒船来航と開国
*1853.6.3/ 米艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。
*1853.6.9/ 浦賀奉行が久里浜でペリーと会見、アメリカの国書を受け取る。
*1854.1.16/ ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来、さらに江戸湾内に停泊する。
*1854.3.3/ 幕府が、日米和親条約(神奈川条約)に調印する。

 嘉永6(1853)年6月、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が、江戸湾浦賀に接岸した。ペリーは浦賀奉行に、開国を促す米大統領フィルモアの親書を手渡した。幕府側は、将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは、1年後に返事を聞くために再来航するとした。

 米国はこの7年前の1846年にも、ビッドルが浦賀に来航して通商を求めた。この時に穏便な交渉方針で臨んで拒否された経験から、ペリーの艦隊は武力で威圧する方針を定めてやって来た。それまでの帆船とは異なり、もうと煙を上げて進む外輪蒸気船の「黒船」は、それだけで威嚇効果は十分だった。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲と称して、江戸湾内で数十発の空砲を発射すると、江戸庶民は腰を抜かした。


 ペリーはその後も数日間、威嚇するように江戸湾に入り込んだうえで、退去した。そのわずか10日後に将軍家慶が死去、第13代将軍家定が就任するも、虚弱ゆえに国政を担える状況ではなく、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。この前年、オランダ商館長から、アメリカが日本の開国を求めて艦隊を派遣するという予告を受けていたが、幕府は黙殺していた。

 ペリーが1年後に再来するとなってから、幕府は大慌てで対策にのり出した。江戸湾警備の増強として、品川沖に11箇所の砲撃用の台場造営を命じた。また、大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。さらに、オランダへの艦船発注を発注し、アメリカから帰国した漂流民ジョン万次郎を登用し、アメリカの事情等を説明させた。


 いかにも泥縄式の対策を講じている幕府をあざ笑うかのように、1年の猶予だったはずが、わずか半年後の嘉永7(1854)年1月に、ペリーは6隻の艦船を率いて再来した。続いて3艦も到着、江戸湾に計9隻の艦隊が集結し、江戸は大きく動揺した。虚を突かれた幕府は、このさい開国も止む無しと考え、全12ヵ条に及ぶ「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する。ここに200年に及ぶ鎖国は解かれた。

 ひき続き、英・露・蘭とも和親条約を結ぶことになる。オランダとは長い付き合いにも関わらず、紳士的な話し合いで対応したため、武力に訴えてきた米英などより最後にまわされてしまい、強く出る者だけに腰砕けになる幕府の弱腰が明かになると、幕府の権威は地に落ちた。これ以降、「幕末」の風が吹き荒れることになる。


 安政5(1858)年6月には、日米和親条約に基づいて赴任したタウンゼント・ハリス総領事により、「日米修好通商条約」が締結される。この不平等条約は、以後の他の列強との条約の基本となり、日本政府は明治期の終わりまで対応に腐心することになる。ただしアメリカでは、1861年からの南北戦争で内乱状態となり、以降の日本への影響力を失い、主として英仏が幕末の日本の動向に介在することになる。


(この時期の出来事)
*1851.1.3/ 土佐国中浜の漁民万次郎ほか2人が、アメリカ船に送られて琉球に着く。
*1852.8.17/ オランダ商館長が、オランダ東インド提督の公文書と風説書を長崎奉行に提出。アメリカ使節の来日を予告するも、幕府は黙殺する。
*1853.7.18/ ロシア使節極東艦隊司令官プチャーチンが、軍艦4隻を率いて長崎に来航する。
*1853.7.-/ 勝海舟が、海防意見書を幕府に提出する。
*1853.12.5/ プチャーチンが再び来航、日露条約締結に向け協議が始まる。
*1854.3.28/ 吉田松陰が、下田停泊中の米軍艦に乗り込み密航をはかるも失敗、自首する。佐久間象山も連座し投獄される。
*1854.7.9/ 幕府が、白地に日の丸の幟を、日本惣船印と定める。
*1854.8.23/ 幕府が、日英和親条約に調印し、長崎・箱館を開港する。
*1855.10.2/ 江戸に大地震が発生し、市中の大部分が被災する。(安政の大地震)
*1855.10.9/ 佐倉藩主堀田正睦が、老中首座となる。

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