◎東海道中膝栗毛
*1802.1.-/ 十返舎一九の「東海道中膝栗毛(浮世道中膝栗毛)」初編刊行(1808完結)。
十返舎一九は、大坂などを放浪したあと江戸へ戻り、日本橋の版元蔦屋重三郎方に寄食しながら、黄表紙などの作家として多くの新作を手掛けていた。蔦屋重三郎は、浮世絵の喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を出版し、読み物作家の山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九などを世に送り出した、当代一の名プロデューサーであった。
一九は、狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳、狂歌など庶民文化に幅ひろく通じて、文章の才だけでなく絵心もあり、挿絵を自分で描き、版下の清書も書くという、版元に極めて重宝される作家であった。その一九が、享和2(1802)年に出した「東海道中膝栗毛」が大ヒットして、一躍流行作家となった。
ピーク時の一九は、版元からの担当者が待機して、原稿ができあがるのを待つという、現代の流行作家にも通じる作家生活だった様子で、文筆のみで自活した最初の作家とも言われる。
「東海道中膝栗毛」は、弥次喜多道中として世に知られ、神田八丁堀の住人栃面屋「弥次郎兵衛」と、その居候の「喜多八」が、放蕩や仕事上の失敗で身の上の不遇に飽きはて、身上財産を風呂敷つつみ一つにまとめて、東海道を伊勢から京・大坂に向けて旅立つ。
両人は、道中で狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。いわゆるドタバタ道中記が、物語のエッセンスである。
「東海道中膝栗毛」は、享和2(1802)年正月、「滑稽本」として村田屋治郎兵衛により出版された。名所・名物紹介に加えて、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描いたユーモラスな道中記は絶大な人気を博し、次々と続編が書かれることになった。この種の道中記は、ロードムービーと同様で、行く先々での逸話を連ねることで、連載がいくらでも可能であり、飽きられない限り続けられるという特徴がある。
「東海道中」シリーズは、文化(1809)6年の第8編(大阪見物)で一段落し、文化11(1814)年には、「東海道中膝栗毛 発端」として、旅立ちの経緯を書いた序編が、追いかけてだされた。江戸から大阪に至る道中は、何年にもわたって出版されたが、物語上の道中時間は実質13日間である。
さらに後続の「続膝栗毛」シリーズが書き連ねられ、弥次喜多は各地域各街道を漫遊する。「続膝栗毛」は、1810年から1822年にかけて刊行され、初編の発表後からあしかけ21年でようやく完結した。さらに日光東照宮に向かう「続々膝栗毛」も書かれたが、作者の死去により未完に終わる。
「膝栗毛」が喝采を受けた時期は、将軍家斉の治世後半「大御所時代」と呼ばれ、江戸を中心として発展した町人文化が「文化文政文化(化政文化)」として花開いた時期に重なる。それまで文字の読み書きは、公家や僧侶など知識階級の特殊技能に属していたが、この当時、寺子屋の増加により、人々の識字率が高まっていた。一般庶民が読者として読み物を支える市場が成立し、十返舎一九のような職業的著述業までも可能にした時代であった。
行きすぎた寛政の改革に対する反動もあり、緩められた綱紀のもとに、色鮮やかな浮世絵や歌舞伎が流行し、庶民の享楽的な文化が浸透した。そのような享楽性と趣味生活を身に着けた弥次喜多が、行く先々で繰り広げるドタバタ物語は、まさに時代にマッチした読み物として受け入れられた。
◎レザノフ来航
*1804.9.6/ ロシア使節レザノフが長崎に来航、通商を迫る。
寛政4(1792)年10月、ロシア使節アダム・ラックスマンが根室に来航した。ラックスマンは、日本人漂流民の大黒屋光太夫らを引き渡すという名目とともに、エカチェリーナ2世の親書を携え通商を求めた。時の老中松平定信は、鎖国方針にもとづいて交渉を拒否、長崎以外に異国船の入港は認められないとして、長崎入港の許可書(信牌)を与えただけで、ロシアの国書受取は拒否し、そのままラックスマンは帰国した。
12年後の文化元(1804)年9月、ニコライ・レザノフは、アレクサンドル1世の親書を携え、漂流民の津太夫らを送還するとして、ラックスマンの得た信牌(入港許可書)をもとに長崎の出島に来航し、改めて通商を要求した。先の交渉相手松平定信は失脚しており、代わりに交渉を担当した老中土井利厚は、わざと非礼な対応をして交渉を断念させようとした。レザノフたちは半年間、出島近くに留め置かれたうえ、翌年になって長崎奉行より通商拒絶の通告を受け、ろくな装備や食料の補給も受けず、長崎を退去させられた。
レザノフはロシアの極東経営を任されており、アラスカに渡って、自ら設立した露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の経営立直しにも尽力した。さらには、当時のスペイン領カリフォルニアにまで向い、現地スペイン機関との交易をすすめてアラスカの食料確保などに努めた。
レザノフは長崎での交渉経験から、日本は武力をもって開国させるしかないと考えて、一旦その旨上奏したが、のち撤回している。1807年、レザノフは、スペインとの条約を皇帝に諮るためペテルブルクに向う途中、シベリヤで病死する。しかしそのころ、彼の部下のニコライ・フヴォストフは、単独で千島や樺太を襲撃し略奪した(フヴォストフ事件/文化露寇)。
フォヴォストフ事件により、日本の武力では欧米の軍事力に太刀打ちできないことを、初めておもい知らされた。幕府は京都の朝廷に事件を報告せざるを得なくなるなど、江戸幕府の威信にまで動揺をもたらした。以後、江戸幕府は威信維持のために、内外に対して強硬策を採るようになり、やがて、千島列島を測量中だったロシア軍艦艦長ゴローニンが捕縛され、2年以上にわたって日本に抑留される事件が起きた。
その後も、フェートン号事件、異国船打払令、モリソン号事件、蛮社の獄と外国船絡みの事件が続き、幕府の鎖国策は揺らいでゆく。さらに1840年に、アヘン戦争が起き清国がイギリスに敗北することで、西欧の決定的な軍事力が日本の識者には知れ渡った。そして、ペリーの黒船が来航(1853年)して開国を要求すると、庶民まで巻き込んだ攘夷開国論議が巻き起こった。そしてそのまま、攘夷・開国と尊王・佐幕というイデオロギーが錯綜しながら、幕末へとなだれ込んでゆくことになる。
(この時期の出来事)
*1801.4.2/ 前年に引き続き伊能忠敬が、幕府から陸奥から関東の測量を命じられ、江戸を出発する。
*1801.9.29/ 国学者本居宣長が没する(72)。
*1802.2.23/ ロシアの進出に備えて、幕府は蝦夷奉行を設置。東蝦夷地は幕府直轄とする。
*1802.10.-/ 志筑忠雄がニュートン力学などを紹介した「暦象新書」を完結する。
*1803.7.29/ 谷中の延命院住職日道が、女犯等の罪により死罪に処せられる。
*1803.11.10/ 尾張藩が農方・商方会所を設置し、米切手(蔵米預り証)の信用回復をはかる。
*1804.5.17/ 幕府は絵草子などの取り締まりを強化、喜多川歌麿が「絵本太閤記」の挿絵で処罰される。
*1805.1.11/ 鳶(とび)職「め組」の辰五郎らと力士四ツ車大八らが、芝神明社の境内で大乱闘。
*1805.6.-/ 幕府は関東取締出役(八州廻り)を設置、幕府領私領の入り組んだ関八州を一括して取り締まり、博徒・無宿人たちを徹底して摘発させた。
*1805.10.13/ 医師華岡青洲が、初めて麻酔剤を使用して乳癌の手術を行う。
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