◎東海道中膝栗毛
*1802.1.-/ 十返舎一九の「東海道中膝栗毛(浮世道中膝栗毛)」初編刊行(1808完結)。


ピーク時の一九は、版元からの担当者が待機して、原稿ができあがるのを待つという、現代の流行作家にも通じる作家生活だった様子で、文筆のみで自活した最初の作家とも言われる。
「東海道中膝栗毛」は、弥次喜多道中として世に知られ、神田八丁堀の住人栃面屋「弥次郎兵衛」と、その居候の「喜多八」が、放蕩や仕事上の失敗で身の上の不遇に飽きはて、身上財産を風呂敷つつみ一つにまとめて、東海道を伊勢から京・大坂に向けて旅立つ。
両人は、道中で狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。いわゆるドタバタ道中記が、物語のエッセンスである。

「東海道中」シリーズは、文化(1809)6年の第8編(大阪見物)で一段落し、文化11(1814)年には、「東海道中膝栗毛 発端」として、旅立ちの経緯を書いた序編が、追いかけてだされた。江戸から大阪に至る道中は、何年にもわたって出版されたが、物語上の道中時間は実質13日間である。
さらに後続の「続膝栗毛」シリーズが書き連ねられ、弥次喜多は各地域各街道を漫遊する。「続膝栗毛」は、1810年から1822年にかけて刊行され、初編の発表後からあしかけ21年でようやく完結した。さらに日光東照宮に向かう「続々膝栗毛」も書かれたが、作者の死去により未完に終わる。


行きすぎた寛政の改革に対する反動もあり、緩められた綱紀のもとに、色鮮やかな浮世絵や歌舞伎が流行し、庶民の享楽的な文化が浸透した。そのような享楽性と趣味生活を身に着けた弥次喜多が、行く先々で繰り広げるドタバタ物語は、まさに時代にマッチした読み物として受け入れられた。
◎レザノフ来航
*1804.9.6/ ロシア使節レザノフが長崎に来航、通商を迫る。



レザノフは長崎での交渉経験から、日本は武力をもって開国させるしかないと考えて、一旦その旨上奏したが、のち撤回している。1807年、レザノフは、スペインとの条約を皇帝に諮るためペテルブルクに向う途中、シベリヤで病死する。しかしそのころ、彼の部下のニコライ・フヴォストフは、単独で千島や樺太を襲撃し略奪した(フヴォストフ事件/文化露寇)。
フォヴォストフ事件により、日本の武力では欧米の軍事力に太刀打ちできないことを、初めておもい知らされた。幕府は京都の朝廷に事件を報告せざるを得なくなるなど、江戸幕府の威信にまで動揺をもたらした。以後、江戸幕府は威信維持のために、内外に対して強硬策を採るようになり、やがて、千島列島を測量中だったロシア軍艦艦長ゴローニンが捕縛され、2年以上にわたって日本に抑留される事件が起きた。

(この時期の出来事)
*1801.4.2/ 前年に引き続き伊能忠敬が、幕府から陸奥から関東の測量を命じられ、江戸を出発する。
*1801.9.29/ 国学者本居宣長が没する(72)。
*1802.2.23/ ロシアの進出に備えて、幕府は蝦夷奉行を設置。東蝦夷地は幕府直轄とする。
*1802.10.-/ 志筑忠雄がニュートン力学などを紹介した「暦象新書」を完結する。
*1803.7.29/ 谷中の延命院住職日道が、女犯等の罪により死罪に処せられる。
*1803.11.10/ 尾張藩が農方・商方会所を設置し、米切手(蔵米預り証)の信用回復をはかる。
*1804.5.17/ 幕府は絵草子などの取り締まりを強化、喜多川歌麿が「絵本太閤記」の挿絵で処罰される。
*1805.1.11/ 鳶(とび)職「め組」の辰五郎らと力士四ツ車大八らが、芝神明社の境内で大乱闘。
*1805.6.-/ 幕府は関東取締出役(八州廻り)を設置、幕府領私領の入り組んだ関八州を一括して取り締まり、博徒・無宿人たちを徹底して摘発させた。
*1805.10.13/ 医師華岡青洲が、初めて麻酔剤を使用して乳癌の手術を行う。
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