◎北方問題の展開
*1796.8.17/ 英海軍ブロートン中佐指揮するイギリス船プロビデンス号が、海図作成の測量途中、室蘭に寄港し薪水の供給をうける。
*1797.10.2/ 幕府が、津軽藩に松前警備、南部藩に箱館警備の出兵を命じる。
*1797.11.-/ ロシア人が再び択捉島へ上陸する。
*1798.7.27/ 3月より幕府は蝦夷地へ、最上徳内や近藤重蔵を含む大調査団を派遣していたが、択捉島に上陸した近藤重蔵は「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
*1798.8.-/ 本田利明が、西洋との交易を説く「西域物語」を著す。
*1798.12.27/ 幕府は、蝦夷地取締御用係をおく。翌1月には蝦夷地取締御用係を拡充し、東蝦夷地を7年間仮直轄とする。
*1799.7.19/ 高田屋嘉兵衛が、択捉島への航路を開拓する。
*1800.閏4.19/ 伊能忠敬は幕府の許可のもとで、蝦夷地測量に出発。
*1800.7.-/ 近藤重蔵は幕命を受けて、高田屋嘉兵衛と択捉島に渡り、アイヌの同化政策をはかる。

1792年には、アダム・ラクスマンが公的な親書を携えて根室に来航した。定信は、ラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示し、幕府役人を派遣した。幕府は丁重に対応し、貿易要求を拒否しない形で、長崎へ回航して交渉するようにと回答した。


1796年には、英海軍ブロートン中佐指揮するイギリス船が室蘭に寄港し薪水の供給をうけ、ロシア人が択捉島に上陸するなど北方が騒がしくなると、1798年幕府は、最上徳内や近藤重蔵を含む大調査団を蝦夷地に派遣し、択捉島に上陸した近藤重蔵は「大日本恵登呂府」の標柱を立てることに成功した。
数学者で経世学者の本多利明は、「西域物語」などを著し、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論、重商主義などを説いた。これらは急進的な欧化主義であり、当時の幕政では受け入れられようも無かったが、この画期的な開国近代化論は、明治維新の中央集権体制による開国近代化によって実現されてゆくことになる。

1804年になると、アラスカ・北太平洋方面で毛皮交易を営むニコライ・レザノフが、世界一周航海艦隊の隊長として南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。レザノフは正式の遣日使節としてロシア皇帝の親書を携えており、先にラクスマンの受取った長崎入港許可証(信牌)を持って長崎に来航した。

フォヴォストフ事件により日露関係は緊張し、日本の武士による軍事力がロシアの軍事力の前に太刀打ちできないことが明かになり、江戸幕府の威信に動揺をもたらした。以後、江戸幕府は自らの威信維持のために強硬策を採ることになり、その結果、1811年にはゴローニン事件を起こすことになった。以降、幕府の外国船対策は、強硬と弱腰を繰り返し、混迷を極めてゆく。
(この時期の出来事)
*1796.2.18/ 稲村三伯らが、初の蘭和辞典「波留麻和解(はるまわげ)」を完成する。
*1797.9.12/ 幕府は、金銀貸借・売掛金などに関する紛争(金公事)につき、当事者間で解決せよという「相対済し令」を発令する。
*1797.12.1/ 幕府は湯島聖堂を幕府の管理下に置き、学問所(昌平坂学問所)と改称する。
*1798.6.-/ 本居宣長が「古事記」の注釈書「古事記伝」を完成する。
*1799.7.20/ 幕府は寺社への参詣熱を規制するため、仏像などの勧進を禁止し、千社参りにかこつけて千社札で集金する便乗商法なども禁じる。
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