◎外国船の出没と、その対応
*1806.1.26/ 幕府が、ロシア船来着のさい、穏便に帰国させるように対応せよとの取扱令を出す。(撫恤[ぶじゅつ]令・薪炭給与令)
*1806.9.11/ ロシア船が樺太のオフイトマリに渡来し、翌日、久春古丹の松前藩番所を襲い、番人を連行する。
*1807.4.23/ ロシア船が来航し、択捉島を襲撃する。
*1807.4.27/ アメリカ船が長崎に来航し、薪と水を要求する。
*1807.5.29/ ロシア船が礼文島沖で商船を襲う。6.2には利尻島に侵入し、幕府船を炎上させる。
*1807/12.9/ 幕府がロシア船の打ち払い令を出し、蝦夷地全域を幕府直轄とする。
*1808.4.13/ 間宮林蔵・松田伝十郎が、幕命で樺太探検に宗谷を出発する。
*1808.8.15/ イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎港に侵入、長崎奉行に薪と水を要求する。
*1809.7.11/ 間宮林蔵が黒竜江地域東韃靼のデレンに到達し、「間宮海峡」の存在を確認して樺太が島であることが示された。




幕府は、最上徳内や間宮林蔵に命じて、蝦夷地から樺太・千島の調査を進めさせ、伊能忠敬には日本全国の版図作成の測量を行わせた。また、蝦夷地を直轄にして、周辺諸藩にも北方の警備強化を命じたが、ロシア人との交渉に苦労した経験から、あわててオランダ語以外の通訳を養成し始めるなど、まさしく泥縄式の外交対策であった。
◎江戸の大火
*1806.3.4/ 江戸芝車町から出火し、530余町が焼け、死者1,200人余が出る。(文化の大火/丙寅の大火)

翌5日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に530町、焼失家屋は12万6,000戸、死者は1,200人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸8ヵ所に御救小屋を建て炊き出しを始め、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。発火地点の名から、通称 車町火事・牛町火事などと呼ばれた。

急速な人口増で、町民などの小さな木造家屋が密集し、極めて延焼しやすい状況が、江戸の大火の多さの原因となった。しかも、「火事と喧嘩は江戸の花」などと呼ぶ江戸っ子気質や、江戸火消しが人気職業とされるなど、火事は当然で致し方のないこと、むしろ身に及ばない大火は見物の対象とするなど、江戸庶民の大火に対する意識欠如も、要因の一つに挙げられる。

明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれる。由来は、それをまとった娘が次々と病死するという因縁の振袖を、本郷の本妙寺で焼いて供養することにしたが、突風にあおられ一気に火の手が上がったという言い伝えによる。しかし、出火場所は、時間をおいて何か所かから発生しており、放火説も根強い。


火事は小火(ぼや)で終わったが、お七は火炙りの刑になり、のちの物語で有名になったので、元の天和火事もお七の名で呼ばれるようになったという。なお、振袖火事と混同されることがあるが、まったく別の事件である。
(この時期の出来事)
*1806.10.-/ 幕府は財政が悪化したため、江戸町民や幕府領農民に御用金を課す。
*1807.1.-/ 曲亭馬琴作・葛飾北斎画の『椿説弓張月』前編が刊行される。
*1807.8.19/ 江戸深川富岡八幡祭の人出で永代橋が崩壊、死者・不明1500人余を出す惨事となった。
*1809.1.-/ 式亭三馬による滑稽本『浮世風呂』前編が刊行される。(4年後に完結)
*1809.2.-/ 菱垣廻船積仲間十組問屋が、江戸大川筋3橋の普請を引き受けるために、幕府から「三橋会所」の設立許可を得る。会所頭取として仕切った杉本茂十郎の実質的な狙いは、樽廻船に敗れた菱垣廻船の再建と、その母体である十組問屋による流通独占であった。
*1809.2.-/ 菱垣廻船積仲間十組問屋が、江戸大川筋3橋の普請を引き受けるために、幕府から「三橋会所」の設立許可を得る。会所頭取として仕切った杉本茂十郎の実質的な狙いは、樽廻船に敗れた菱垣廻船の再建と、その母体である十組問屋による流通独占であった。
*1810.8.11/ 幕府の「御金改役」(金地金・金貨などの管理役)を代々務める後藤家では、幕府の小普請金や御金蔵の小判を横領しているのが発覚した。後藤庄三郎家は断絶、当主らは獄門・遠島とされた。
*1810.9.-/ 幕府は、薩摩藩に、琉球貿易品の長崎会所での転売を許可する。薩摩藩は、琉球を介した貿易や密貿易の利益によって、幕末の雄藩への下地を築き上げてゆく。
*1810.9.-/ 幕府は、薩摩藩に、琉球貿易品の長崎会所での転売を許可する。薩摩藩は、琉球を介した貿易や密貿易の利益によって、幕末の雄藩への下地を築き上げてゆく。
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