◎第5代将軍綱吉就任
*1680.4.10/ 大老酒井忠清は、病に悩む4代将軍家綱を迎えて、二の丸で饗宴を催す。
*1680.5.6/ 家光の4男で舘林藩主徳川綱吉が、将軍家綱の継嗣となる。
*1680.5.8/ 将軍家綱没、享年40。
*1680.8.23/ 徳川綱吉が第5代将軍に就任する。
*1680.12.9/ 下馬将軍と称された大老酒井忠清が罷免される。
延宝8(1680)年4月、病に臥せる家綱をなぐさめようと、大老酒井忠清ら重鎮が饗宴を催すも、その甲斐もなく、第4代将軍徳川家綱は5月8日に没する。その死が迫ってから養子に迎えられた舘林藩主綱吉は、8月に宣下を受け第5代将軍に就任した。
綱吉は徳川家光の4男で家綱の異母弟であったが、家綱の世子とするにあたっては、下馬将軍と呼ばれ権勢をほこった大老酒井忠清が反対を唱えたと言われる。しかし、対立する老中堀田正俊に押し切られた。
綱吉の生母 玉(桂昌院)は京の庶民の娘と言われ、その出自の低さゆえ酒井忠清に反対されたが、このお玉さんの出世譚から「玉の輿にのる」という言葉が生まれたと言われる。
家綱は徳川家光の長男として、早くから後継ぎとされており、慶安4(1651)年4月、家光が48歳で薨去すると、家綱は11歳で第4代将軍に就任することになった。当初、由井正雪の慶安の変が起きたりと政情不安を経験したが、叔父の保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝や老中松平信綱ら、寛永の遺老といわれる名臣の支えで危難を乗り越えた。
治世後半の寛文・延宝期には、寛永の遺老が退いたあと、酒井忠清が大老に就任し、忠清を筆頭にした老中合議制のもとで、安定した幕政運営がなされた。3代家光と5代綱吉の間で目立たないが、家光の後を受けて文治主義を定着させ、29年間にわたる安定政権を堅持した。
家綱は「左様せい様」と称され、大老酒井忠清ら重臣に政務を委ねることが多く、必然的に忠清に権力が集中した。家綱は生まれつき病弱で男子にも恵まれなかったので、継嗣問題が憂慮されていた。
延宝8(1680)年5月に家綱が病に倒れたため、老中堀田正俊の勧めで、異母弟で末弟にあたる館林藩主松平綱吉を急遽養子に迎えて将軍後嗣とし、その直後に家綱は死去した。享年40。
綱吉が養子になるに際しては、大老酒井忠清は宮家将軍を迎えるべしと反対したとされる。そのせいか、綱吉が将軍に就任すると、間もなく忠清は解任される。代わって堀田正俊が大老に就任し、綱吉は、治世前半の「天和の治」と呼ばれる政治を執り行なうことになった。
(追記)
将軍徳川綱吉が、治世前半には「天和の治」という善政を行ったとされるのに、後半は「生類憐れみの令」など悪政とされるものになったのは何故か。
当初は、綱吉を将軍に推した「堀田正俊」を大老に取り立てると、堀田は財政面において大きな成果を上げるなど幕政に寄与し、安定した幕府財政をもとに、綱吉は儒学に基づいた文治政治を推進した。
しかし貞享元年(1684年)、江戸城内で堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の「柳沢吉保」らを重用して、老中などの幕閣を遠ざけるようになった。「生類憐れみの令」をめぐって、綱吉は反対する大老堀田正俊と対立しており、堀田刺殺には、綱吉の関与説もある。
堀田正俊が居なくなり、「側用人政治」となって自在に幕政を動かせるようになってから、綱吉は、生母の桂昌院(お玉)に従一位という高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をし、その母の寵愛する隆光僧正の言を信じ、生類憐みの令もその意見を反映したものと言われる。
つまるところ、身の回りの人間だけを頼りに政治を仕切り、放漫な後半の幕政となったとされる。それは逆に庶民の縛りがゆるみ、元禄文化を花咲かせるのにもつながった。
(この時期の出来事)
*1676.4.25/ 長崎代官末次平蔵が、密貿易の罪で隠岐に配流される。
*1677.2.-/ 菱川師宣の挿絵入り地誌「江戸雀」が刊行される。
*1678.2.3/ 大坂で、1月に死んだ遊女夕霧を追善するとして「夕霧名残正月」を、無名の役者坂田藤十郎が演じ、大当たりし一躍名を上げる。(和事の初め)
当初は、綱吉を将軍に推した「堀田正俊」を大老に取り立てると、堀田は財政面において大きな成果を上げるなど幕政に寄与し、安定した幕府財政をもとに、綱吉は儒学に基づいた文治政治を推進した。
しかし貞享元年(1684年)、江戸城内で堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の「柳沢吉保」らを重用して、老中などの幕閣を遠ざけるようになった。「生類憐れみの令」をめぐって、綱吉は反対する大老堀田正俊と対立しており、堀田刺殺には、綱吉の関与説もある。
堀田正俊が居なくなり、「側用人政治」となって自在に幕政を動かせるようになってから、綱吉は、生母の桂昌院(お玉)に従一位という高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をし、その母の寵愛する隆光僧正の言を信じ、生類憐みの令もその意見を反映したものと言われる。
つまるところ、身の回りの人間だけを頼りに政治を仕切り、放漫な後半の幕政となったとされる。それは逆に庶民の縛りがゆるみ、元禄文化を花咲かせるのにもつながった。
(この時期の出来事)
*1676.4.25/ 長崎代官末次平蔵が、密貿易の罪で隠岐に配流される。
*1677.2.-/ 菱川師宣の挿絵入り地誌「江戸雀」が刊行される。
*1678.2.3/ 大坂で、1月に死んだ遊女夕霧を追善するとして「夕霧名残正月」を、無名の役者坂田藤十郎が演じ、大当たりし一躍名を上げる。(和事の初め)
*1679.3.-/ 大坂地誌「難波雀」が刊行される。
*1679.11.3/ 吉原通いの果て辻斬りを繰り返した平井権八が、鈴ヶ森刑場で磔の刑に処せられる。
*1679.11.3/ 吉原通いの果て辻斬りを繰り返した平井権八が、鈴ヶ森刑場で磔の刑に処せられる。
長兵衛「お若えの、お待ちなせえやし」、権八「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」
「白井権八」と吉原の遊女「小紫」を描いた「権八小紫物」も、人気の演目であった。
「白井権八」と吉原の遊女「小紫」を描いた「権八小紫物」も、人気の演目であった。
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