2020年6月17日水曜日

【17C_2 1671-1675年】

【17th Century Chronicle 1671-1675年】

◎伊達騒動
*1671.3.27/ 大老酒井忠清の江戸屋敷で、仙台伊達家内紛の審問が行われているなか、突如、国家老の原田甲斐が刃傷におよぶ。

f:id:naniuji:20190223210203j:plain 伊達騒動は、江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動で、黒田騒動・加賀騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。初代藩主伊達政宗の孫3代目伊達綱宗の放蕩三昧に始まった内紛だが、その子4代目の伊達綱村が失政で隠居に追い込まれるまで、複雑に人物が関わった40年にわたる内政の混乱は、伊達60万石が改易の危機に瀕するほどだった。

 騒動は、綱宗隠居事件・寛文事件・綱村隠居事件と3期に分類される。仙台藩3代藩主伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、政宗の10男で叔父にあたる伊達兵部宗勝(一関伊達家)らが、綱宗を強制隠居させたのが事の発端であった(綱宗隠居事件)。

f:id:naniuji:20190223210329j:plain 4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したが、幼少の藩主に代わって、大叔父にあたる宗勝が実権を握り権勢を振るうようになった。そんななかで、伊達家一門内で所領争いが生じ、一方の当事者 伊達安芸宗重(涌谷伊達家)は裁定に不満を抱くと、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。

 伊達家内紛は錯綜し、成り行き次第では改易も懸念されるなかで、場所を大老酒井忠清邸に移し大老以下幕府重臣列座のもとで、2度目の審問が行われた。その審問中、宗勝派の伊達藩奉行(国家老)原田甲斐宗輔が、控え室で突如、宗重を斬殺した。

f:id:naniuji:20190223210541j:plain 即座に原田甲斐も斬られ、混乱の中で、他に審問に呼ばれていた伊達家家臣2名も含めて、全員が死亡してしまう。関係者が死亡し審理も不明のまま、藩主綱村は幼少のためお構い無し、刃傷沙汰を起こした原田家は断絶、宗勝も支藩一関藩主を解かれ改易となった。

 刃傷事件の記録は多数の関係者によるものが残されているが、肝心の原田甲斐がなぜ刃傷に及んだかは不明のまま、乱心として扱われた。甲斐は歌舞伎などで悪人として扱われることが多いが、山本周五郎の小説「樅(もみ)ノ木は残った」では、幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描かれ、話題に上った(寛文事件/伊達騒動というときはこの事件を指す)。


f:id:naniuji:20190223210410j:plain その後も伊達藩にはごたごたが続き、長じて藩主としての権力を強めようとした綱村は、自身の側近を藩の重職に据えるようになったため、これに危惧を抱いた伊達家旧臣は綱村に諌言書を提出した。

f:id:naniuji:20190223210622j:plainこの内紛は、ときの5代将軍綱吉の耳にも入るようになり、仙台藩の改易が危惧され出したため、綱村はやっと幕府に隠居願いを提出した。40年にわたる伊達騒動は、綱村の隠居でようやく終止符が打たれたが、伊達政宗以来の外様大名の雄 仙台藩は、以後、存在感を潜めることになった(綱村隠居事件)。

(この時期の出来事)
*1671.7.-/ 江戸の豪商河村瑞賢が、陸奥幕府領年貢米の江戸輸送航路を開く。(東廻航路の開設)
*1671.10.22/ 儒学者で神道学者山崎闇斎が、神儒一致を唱え「垂加神道」の号を贈られる。
*1672.2.2/ 元宇都宮藩士奥平源八が、父の仇奥平隼人を討つ。(浄瑠璃坂の仇討)
*1672.-.-/ 河村瑞賢が、出羽国幕府領の年貢米を江戸に輸送し、東廻航路に続いて西廻航路も開設する。
*1673.5.-/ 幕府は初めての出版統制令を出す。
*1974.2.14/ 京都所司代永井尚庸が市中の宗門改めを行う。事実上の戸籍調査であり、京の町人人口(武家・公家・寺社は対象外ゆえ)は40万人と判明。同時期に各地でも宗門改めが実施され、京都・大阪・江戸の三都とも、ほぼ同規模の人口であった。
*1674.-.-/ 鴻池喜右衛門が難波今橋に両替店を開業する。
*1675.6.21/ 代官伊奈忠易が、八丈島南方の小笠原諸島を探検、珍獣奇木を幕府に献上する。

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