◎徳川幕藩体制の構築
*1606.3.1/ 諸大名の手伝い普請で、江戸城の増築工事が始まる。
*1606.5.22/ 譜代井伊家の居城、京をにらむ近江彦に根城が完成する。
*1606.8.-/ 松前藩主松前慶広が蝦夷地の松前に城を築き、福山館と称する。
*1606.9.23/ 江戸城本丸殿舎が完成し、徳川秀忠が移る。
*1607.2.17/ 家康は駿府を隠退の地と定め、駿府城の修築を諸大名に命じる。
*1607.閏4.1/ 江戸城の天守閣・石垣修築を東国大名に命じ、9月に完成する。
*1607.12.-/ 加藤清正が熊本城を築く。
*1608.-.-/ 姫路藩主池田輝政が姫路城を改築し、天守閣を造営する。
*1610.1.9/ 大御所家康は諸大名に名古屋城の築城を命じ、閏2月、普請を開始する。
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発し、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原で合戦を展開した。事実上の天下分け目の戦いではあったが、必ずしも豊臣家と徳川家の政権争いというわけではなかった。
東軍の中心となった徳川家康は、豊臣の「五大老」の筆頭として、独自の実力を持つ大名として秀吉に従属していた。一方で、西軍の実質的代表となった石田三成は、豊臣五奉行の行政担当として、徳川政権の内政全般を取り仕切る官僚的な立場にあった。やがて、秀吉が死去すると、家康の相対的地位が大きくなり、越権的な差配が目立つようになった。
豊臣直系の家臣団の間でも、石田三成など政務中枢の文治派と、加藤清正などの武闘派武将との間に軋轢が生じ(石田三成襲撃事件)、三成が窮地に陥る状況が生じたが、それを家康が取りなすなどして、さらに影響力を高めた。
家康が、五大老のひとり会津の上杉景勝と対立し、これを討つとして兵を起こすと、強大化した徳川家康に対抗するために、石田三成は、毛利輝元を担ぎ出して西軍を組織して、東国の上杉と、家康を挟撃するとして兵を起こした。
家康は軍勢を率いて上杉の東征に向かうが、事実上は三成らの西軍挙兵を待ち構えていたとされ、すでに地盤である東国にもしっかり手を打ってあった。西軍挙兵の報をきくと家康は反転して、東国軍勢を率いて西に迎え撃つ。かくして慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の合戦の火蓋がきって落とされた。
合戦の直前まで、東西軍相互に敵側陣営の切り崩し工作を行っており、戦端が切られてからも、様子見で陣から動かない大名も散見された。石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えたとされるが、当初多勢と見られた西軍から多くの寝返りが起き、布陣から動かない大名もあった。そのため、わずか半日の戦いで西軍は総崩れとなり、天下分け目の戦いは、徳川家康勢の大勝利となった。
この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失い、勝者の徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれた。家康は江戸幕府を開くとともに、合戦後の論功行賞を行った。しかし豊臣本家の秀頼と淀君は大阪城に健在であり、合戦に加わらなかった豊臣恩顧の武将や、石田三成との対立から東軍に就いた福島正則や加藤清正などの豊臣直系の武将もあり、複雑な論功行賞となった。
西軍に加わった大名の領地を没収し、戦役に功のあった武将を加増するだけではなく、徳川にゆかりの深い大名(親藩・譜代)を畿内や東海道などの要衝に配置し、合戦直前に東軍に加わった豊臣恩顧の武将(外様)たちは、加増する代わりに西日本などの遠隔地へ移封とした。
家康の次男結城秀康は北陸道を押さえる越前、家康4男の松平忠吉は東海道を押さえる尾張清洲、家康の次女督姫を娶った池田輝政は西国と畿内を結ぶ播磨、家康5男の武田信吉を常陸水戸に配して伊達氏上杉氏の監視役とするなど、徳川一門(親藩)に拠点を固めさせ、また井伊直政を近江彦根に封じたのを始め、美濃、信濃、伊勢、三河、遠江、駿河といった東海道・中山道筋や畿内には譜代大名を大幅に増加させて入封させた。
このように、江戸の防衛と豊臣氏および西国外様大名の監視に、徳川ゆかりの大名を配して、いまだ勢力を残存させる豊臣氏を封じ込め、やがて260年続く江戸幕府の幕藩体制の基礎とした。そして要衝に配置した大名には、壮大な城を築かせて、周囲に家臣を配置した城下町を形成させた。
江戸城増築と江戸普請、自身の隠棲する駿府城、京都の居城の二条城などはもとより、京をにらむ近江に井伊家の彦根城、西国への要衝播州姫路には池田輝政の姫路城、家康9男義直の尾張家居城として名古屋城など、この時期に築かれた名城は多い。
これらの多くは、戦闘の前線としての山城ではなく、開けた平地の平城(ひらじろ)であり、周囲に城下町を展開する統治の拠点を意味した。それまでの戦国から、平和の江戸時代への移行を象徴するものでもあった。
(この時期の出来事)
*1606.4.-/ 幕府は、武家の官位申請を幕府の推挙によることと定め、朝廷の叙任権が実質的に幕府に移る。
*1607.閏4.26/ 家康の9男徳川義直が甲府より清州に移封され、御三家筆頭尾張徳川家の始まりとなる。
*1607.5.6/ 朝鮮国使呂祐吉が幕府に国書を呈し、秀忠がこれに返書、朝鮮との間に国交を回復する。関係修復をまかされた対馬藩主宗義智は、双方の面子を立てるために、国書の偽造までして仲介の任を果した。
*1608.7.-/ スペインのルソン(フィリピン)総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロが、秀忠に書簡を送り交易を求める。
*1609.4.5/ 薩摩藩主島津家久が琉球に出兵を命じ、首里城を攻略された琉球尚寧王は降伏する。
*1609.8.22/ オランダ東インド会社が肥前平戸に商館を設置し、対日貿易の拠点とする。
*1607.2.17/ 家康は駿府を隠退の地と定め、駿府城の修築を諸大名に命じる。
*1607.閏4.1/ 江戸城の天守閣・石垣修築を東国大名に命じ、9月に完成する。
*1607.12.-/ 加藤清正が熊本城を築く。
*1608.-.-/ 姫路藩主池田輝政が姫路城を改築し、天守閣を造営する。
*1610.1.9/ 大御所家康は諸大名に名古屋城の築城を命じ、閏2月、普請を開始する。
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後発生した豊臣政権内部の政争に端を発し、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が関ヶ原で合戦を展開した。事実上の天下分け目の戦いではあったが、必ずしも豊臣家と徳川家の政権争いというわけではなかった。
東軍の中心となった徳川家康は、豊臣の「五大老」の筆頭として、独自の実力を持つ大名として秀吉に従属していた。一方で、西軍の実質的代表となった石田三成は、豊臣五奉行の行政担当として、徳川政権の内政全般を取り仕切る官僚的な立場にあった。やがて、秀吉が死去すると、家康の相対的地位が大きくなり、越権的な差配が目立つようになった。
豊臣直系の家臣団の間でも、石田三成など政務中枢の文治派と、加藤清正などの武闘派武将との間に軋轢が生じ(石田三成襲撃事件)、三成が窮地に陥る状況が生じたが、それを家康が取りなすなどして、さらに影響力を高めた。
家康が、五大老のひとり会津の上杉景勝と対立し、これを討つとして兵を起こすと、強大化した徳川家康に対抗するために、石田三成は、毛利輝元を担ぎ出して西軍を組織して、東国の上杉と、家康を挟撃するとして兵を起こした。
家康は軍勢を率いて上杉の東征に向かうが、事実上は三成らの西軍挙兵を待ち構えていたとされ、すでに地盤である東国にもしっかり手を打ってあった。西軍挙兵の報をきくと家康は反転して、東国軍勢を率いて西に迎え撃つ。かくして慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の合戦の火蓋がきって落とされた。
合戦の直前まで、東西軍相互に敵側陣営の切り崩し工作を行っており、戦端が切られてからも、様子見で陣から動かない大名も散見された。石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えたとされるが、当初多勢と見られた西軍から多くの寝返りが起き、布陣から動かない大名もあった。そのため、わずか半日の戦いで西軍は総崩れとなり、天下分け目の戦いは、徳川家康勢の大勝利となった。
この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失い、勝者の徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれた。家康は江戸幕府を開くとともに、合戦後の論功行賞を行った。しかし豊臣本家の秀頼と淀君は大阪城に健在であり、合戦に加わらなかった豊臣恩顧の武将や、石田三成との対立から東軍に就いた福島正則や加藤清正などの豊臣直系の武将もあり、複雑な論功行賞となった。
西軍に加わった大名の領地を没収し、戦役に功のあった武将を加増するだけではなく、徳川にゆかりの深い大名(親藩・譜代)を畿内や東海道などの要衝に配置し、合戦直前に東軍に加わった豊臣恩顧の武将(外様)たちは、加増する代わりに西日本などの遠隔地へ移封とした。
家康の次男結城秀康は北陸道を押さえる越前、家康4男の松平忠吉は東海道を押さえる尾張清洲、家康の次女督姫を娶った池田輝政は西国と畿内を結ぶ播磨、家康5男の武田信吉を常陸水戸に配して伊達氏上杉氏の監視役とするなど、徳川一門(親藩)に拠点を固めさせ、また井伊直政を近江彦根に封じたのを始め、美濃、信濃、伊勢、三河、遠江、駿河といった東海道・中山道筋や畿内には譜代大名を大幅に増加させて入封させた。
このように、江戸の防衛と豊臣氏および西国外様大名の監視に、徳川ゆかりの大名を配して、いまだ勢力を残存させる豊臣氏を封じ込め、やがて260年続く江戸幕府の幕藩体制の基礎とした。そして要衝に配置した大名には、壮大な城を築かせて、周囲に家臣を配置した城下町を形成させた。
江戸城増築と江戸普請、自身の隠棲する駿府城、京都の居城の二条城などはもとより、京をにらむ近江に井伊家の彦根城、西国への要衝播州姫路には池田輝政の姫路城、家康9男義直の尾張家居城として名古屋城など、この時期に築かれた名城は多い。
これらの多くは、戦闘の前線としての山城ではなく、開けた平地の平城(ひらじろ)であり、周囲に城下町を展開する統治の拠点を意味した。それまでの戦国から、平和の江戸時代への移行を象徴するものでもあった。
(この時期の出来事)
*1606.4.-/ 幕府は、武家の官位申請を幕府の推挙によることと定め、朝廷の叙任権が実質的に幕府に移る。
*1607.閏4.26/ 家康の9男徳川義直が甲府より清州に移封され、御三家筆頭尾張徳川家の始まりとなる。
*1607.5.6/ 朝鮮国使呂祐吉が幕府に国書を呈し、秀忠がこれに返書、朝鮮との間に国交を回復する。関係修復をまかされた対馬藩主宗義智は、双方の面子を立てるために、国書の偽造までして仲介の任を果した。
*1608.7.-/ スペインのルソン(フィリピン)総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロが、秀忠に書簡を送り交易を求める。
*1609.4.5/ 薩摩藩主島津家久が琉球に出兵を命じ、首里城を攻略された琉球尚寧王は降伏する。
*1609.8.22/ オランダ東インド会社が肥前平戸に商館を設置し、対日貿易の拠点とする。
*1609.12.15/ 前年、肥前日野江藩主有馬晴信がマカオに送った朱印船の乗組員が、ポルトガル兵と衝突し60人余りが射殺されていた。この12月、ポルトガルのマカオ総督ペッソアに率いる貿易船デウス号が長崎に寄港した時、有馬晴信は報復としてポルトガル船を攻撃、司令官・船員もろともに自沈させた。この事件は、ポルトガルが対日貿易をオランダに奪われる契機となった。
*1610.8.1/ 京都のキリシタンで商人の田中勝助らは、前ルソン総督ビベロとともに浦賀を出発、3ヵ月後にはメキシコに到達し、太平洋を横断した最初の日本人となる。
*1610.8.1/ 京都のキリシタンで商人の田中勝助らは、前ルソン総督ビベロとともに浦賀を出発、3ヵ月後にはメキシコに到達し、太平洋を横断した最初の日本人となる。
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