2020年6月4日木曜日

【17C_1 1611-1615年】

【17th Century Chronicle 1611-1615年】

◎大坂冬・夏の陣(豊臣氏滅亡)
*1611.3.28/ 豊臣秀頼が上洛し、二条城で大御所家康と会見する。
*1611.11.-/ 豊臣家の威信をかけた方広寺の大仏殿が完成する。
*1614.7.26/ 大御所家康が京都方広寺大仏開眼供養を目前にして、鐘楼の銅鐘に刻まれた「国家安康」という銘文に異議をとなえる。(鐘銘事件)
*1614.11.15/ 20万の徳川軍が大阪城攻撃に出陣し、大坂を包囲する。(大坂冬の陣)
*1615.4.4/ 京都所司代から豊臣方再挙計画を聞いた家康は、大阪攻めのたに駿府を出、再度の大坂征討の命を諸大名に下す。
*1615.5.8/ 徳川方が大阪城を総攻撃、豊臣秀頼とその母淀君が自害し、豊臣氏が滅亡する。(大坂夏の陣)

 慶長5(1600)年、徳川家康は関ヶ原の戦いに東軍の将として西軍に圧勝したが、この戦いは必ずしも豊臣対徳川という構図で戦われたものではなかった。秀吉のもとで五大老筆頭として実力を蓄えた家康に対して、文治派官僚の筆頭であった石田三成が、他の大老や奉行を引き込んで対抗しようとしたものであり、いわば豊臣政権内での主導権争いであった。

 したがって、事実上の実権は掌握した家康であるが、公的には豊臣政権に代わって徳川の政権を樹立したとは認証されない。現に、65万石にまで領地を削られたとはいえ、大坂城には秀吉の嫡子秀頼が幼少ではあるが豊臣当主として、淀君の後見のもとで健在であり、合戦で東軍についた豊臣恩顧の武将や、戦いに加わらなかった秀吉の遺臣などが、依然として隠然たる勢力を保持していた。秀頼元服の節には、家康が政権を豊臣に返上するとの期待も、まだ残っていたのである。

 慶長8(1603)年2月、家康は完成したばかりの京都二条城で征夷大将軍に就任すると、諸大名に命じて江戸城などの天下普請事業を担わさせ、その威光を知らしめすとともに、戦後の論功行賞を行い、大名の転封を実施して、安定した政権作りを始める。そして同年、継嗣秀忠の娘千姫を豊臣秀頼に嫁がせて懐柔をはかるとともに、慶長10(1605)年には、わずか2年で将軍を辞して秀忠に将軍職を譲る。

 これにより将軍職は、以後、徳川氏が世襲していくことを天下に示し、豊臣の世には戻らないことを知らしめた。秀忠の将軍就任時には、秀吉の正妻北政所(高台院)を通じて豊臣秀頼に上洛を求め、臣下の礼を取ることを求めたが、秀頼と淀君はこれを拒絶する。しかしここは、家康は事を荒立てずに自重した。

 慶長16(1611)年3月、後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。加藤清正・浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現した(二条城会見)。翌4月には、家康は在京の大名22名を二条城に招集、幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17(1612)年には、それ以外の東北・関東などの大名から同様の誓詞をとって、名実ともに徳川の政権を裏付けた。

 二条城の会見以後、浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正・池田輝政・浅野幸長・前田利長ら豊臣家ゆかりの大名が次々と亡くなり、豊臣家の孤立は深まった。それにともない、豊臣方と徳川方の対決姿勢は強まっていった。こうしたなかで、方広寺鐘銘事件が発生し、両家の対立は決定的となる。

 慶長19(1614)年、豊臣家が再建していた京の方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。この方広寺大仏殿の梵鐘の銘文に「国家安康」とあり、これは家康の二文字を分断して呪詛しているという言いがかりが付けられた。事の当否はともかく、これが大坂の陣の切っ掛けになったのは間違いない。豊臣重臣で方広寺再建の総奉行方であった片桐且元は、責任者として弁明を尽くすが取り合ってもらえず、返って徳川寄りの裏切りとさえ疑われた。

<大坂冬の陣>
 慶長19(1614)年10月、もはや関係修復不可能と考えた豊臣方は、旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手したが、かつて豊臣恩顧の諸大名には呼応するものが無かった。それでも秀吉の遺した莫大な金銀で浪人衆をかき集め、豊臣方の総兵力は約10万人となり、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆がかき集められた部隊の指揮をとった。

 一方、幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結した。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向い、先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行った。大坂の処方面に豊臣方が築いた砦は打ち破られ、豊臣方は大坂城に撤収して籠城策に収斂したが、その大坂城は徳川方20万の軍勢に完全に包囲された。

 真田幸村が主導する真田丸の戦い(12月3日・4日)では豊臣軍が徳川軍を撃退する事態が起こり、秀忠は総攻撃を提案するも、家康は慎重に事を運び、じわじわと大坂城のまわりに仕寄(塹壕)の構築を進めさせた。徳川全軍より一斉砲撃が始められると、豊臣方は近づいてくる徳川勢に火縄銃で対抗する。

 徳川方にも兵糧不足があり真冬の陣でもあったため、和議を提案するが、条件が折り合わず豊臣方は拒否する。しかし長期の籠城戦で疲労が蓄積するところへ、本丸の淀殿の近くに一発の砲弾が命中すると、一転して和議に応ずる事を決めた。以後、和議の交渉は徳川の一方的主導で進められた。

 12月20日に講和条件が合意し誓書が交換された。講和内容は豊臣家側の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊、南堀、西堀、東堀を埋めること」などで、これに対し徳川家が「秀頼の身の安全と本領の安堵、城中諸士についての不問」を約束した。

 和議に従って堀の埋め立てが始められたが、このとき徳川方は外堀だけでなく内堀まで勝手に埋め尽くしたとされる。ただし、これは和議での合意に基づくものであったという説もある。いずれにせよ、難攻不落の大坂城は天守を残して、ほぼ無防備にされることになった。

<大坂夏の陣>
 慶長20(1615)年4月、大坂や京での浪人の乱暴・狼藉など不穏な動きの知らせが京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇や豊臣家の移封を要求する。 豊臣家が移封を拒否すると、徳川方は諸大名を鳥羽・伏見に集結させ、家康と秀忠がそれぞれ京に入り、各武将を集めて二条城で軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。

 山崎など北方の要所の警備を固めた上で、徳川軍勢は南方の河内路及び大和路から大坂に向かった。豊臣方も開戦準備を固めたが、形勢不利と見た浪人たちは大坂城を去るものが出て、豊臣家の戦力は7万8,000に減少した。もはや大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いとし、野戦にて打って出て徳川軍との決戦を挑む事が決定された。

 戦端が開かれ、樫井の戦い、道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦、八尾・若江合戦、天王寺・岡山合戦などで、いずれも徳川方に打ち破られた。大坂城内に押し込められた豊臣勢には、堀を埋められて裸同然となった大坂城で、もはや殺到する徳川方を防ぐ術はなかった。城内でもあちこちで寝返りが発生し、城内に火を放って逃亡する者が出るなどして、火の手が上がった大坂城天守は、遂に灰燼に帰し落城した。

 秀忠の娘千姫は徳川の手で救出されたが、秀頼は淀殿らとともに自害し、ここに豊臣家は滅亡する。落城後の大坂城下では、豊臣残党のみならず、一般民衆まで斬殺・略奪の被害にさらされ無残であったという。

(この時期の出来事)
*1611.3.27/ 後陽成天皇が政仁親王(後水尾天皇)に譲位し、院政を復活させる。幕府の干渉への抗議の為とされる
*1611.11.-/ 貿易商角倉了以が、鴨川を分流して高瀬川の開削工事を開始する。
*1612.3.21/ 幕府は京都所司代と長崎奉行に命じて、キリスト教の禁止と南蛮寺破却を命じる。本多正純家臣でキリシタン岡本大八は、詐欺事件で火炙りの刑となった。
*1612.7.-/ 幕府は、風紀を乱す不良若者「かぶき者」の取り締まりに出て、その首領大鳥居逸兵衛ら多数を処刑する。 
*1612.9.27/ オランダ商館長が家康に、ポルトガルに領土の野心ありと告知する。
*1613.8.4/ イギリス東インド会社司令官ジョン・セーリスが家康に謁見し、英国王の国書を提出、通商を求める。
*1613.9.15/ 仙台藩主伊達政宗の命を受けて、遣欧使節支倉常長が、イスパニア国王に通商をもとめて月の浦港を出港する。
*1613.12.23/ 幕府が全国に向けて、金地院崇伝の起草によるキリシタン禁教令を発令する。
*1614.10.-/ キリシタン大名高山右近ら、キリシタン148名がマニラやマカオに追放される。
*1615.7.7/ 将軍秀忠が伏見城に諸大名を集め、武家諸法度13ヵ条を布告する。これには従来の徳川氏と諸大名の関係を、江戸幕府としての公的な政治体制に再編成する狙いがあった。

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