◎江戸幕府の成立
*1603.2.12/ 家康が征夷大将軍の宣下を受け、正式に江戸幕府を開く。
*1603.3.3/ 家康は、将軍の城下町として、諸大名に江戸の市街地の造営を命じ、江戸幕府の威信を諸大名に知らしめる。
*1603.3.21/ 徳川氏の西の拠点二条城が完成し、家康が伏見城から移る。
*1603.7.28/ 徳川秀忠の長女千姫が、豊臣秀頼に嫁ぐ。
*1605.4.16/ 家康が辞任して、代わって徳川秀忠が征夷大将軍に任じられる。これにより、将軍職が徳川家の世襲であることを知らしめ、すでに徳川の世の中であることを諸大名に認知させた。家康は駿府(静岡)で、大御所として引き続き実権を握る。
*1605.4.-/ 秀忠の将軍宣下式に使者を出さなかった豊臣家に対して、家康は大阪城の豊臣秀頼に上洛を要請するも、淀君が拒否。また戦乱かと京や大坂の市中は騒然となるが、家康は自重して様子見とした。
慶長5(1600)年9月15日、徳川家康ひきいる徳川方東軍が、石田三成らの豊臣方西軍と、美濃国関ヶ原で「関ヶ原の戦い」を行い、東軍家康方が勝利した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた豊臣方の所領を東軍諸将に加増分配するなどの論功行賞をおこなった。
戦後処理を済ませた家康は、家康は大坂城西の丸を出て京都伏見城にて政務を執り、既に松平から徳川に改姓していたが、さらに源氏に属する新田氏の子孫として系図の改竄を行い、慶長8(1603)年2月12日、後陽成天皇より宣旨が下り、家康は征夷大将軍に就任する。そして完成したばかりの二条城に移ると、勅使を迎えて、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
しかし大坂城には豊臣秀頼と淀君が居残り、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヵ国65万石の大名の一つとなったが、依然として西国には豊臣家を主君とあおぐ勢力が隠然として残された。ある種の二重支配構造であったが、家康は事を急がず徐々に自らの体制を整えてゆく方針をとった。
まず家康は、諸大名に江戸の市街地の造営を命じ、天下の将軍の城下町としての江戸の町を築かせ、江戸幕府の威信を諸大名に認知させる。さらに、継嗣 秀忠の娘千姫を豊臣秀頼に嫁がせて懐柔をはかるとともに、慶長10(1605)年4月16日には、わずか2年で将軍を辞して、嫡男秀忠に将軍職を譲る。これにより将軍職は、以後、徳川氏が世襲していくことを天下に示し、豊臣の世には戻らないことを知らしめた。
秀忠の将軍就任時には豊臣秀頼に上洛を求め、秀頼と淀君はこれを拒絶するも、家康は事を荒立てずに自重した。慶長12(1607)年には、家康は駿府城に移って、「江戸の将軍」とともに「駿府の大御所」として、実権を掌握し続けて幕府の制度作りに努める。名実ともに豊臣氏を亡ぼすのは、慶長19(1614)年から慶長20(1615)年の大阪冬の陣・夏の陣を待つことになる。
家康は、翌 元和2(1616)年、鷹狩に出た先で倒れ、4月17、駿府城において75歳(満73歳4ヵ月)で死去する。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られたが、翌 元和3(1617)年には下野国日光に改葬され、「東照大権現」の神号を受け、やがて代々の徳川将軍が日光社参することで、江戸幕府の守護神としてその威厳を保つことになる。
(この時期の出来事)
*1601.1.-/ 家康が東海道に伝馬制度を定める。
*1601.3.1/ 土佐の新領主山内一豊は、桂浜で相撲興行を行い、観衆の中の旧領主長宗我部の遺臣73名を捕縛し磔にする。
*1601.10.-/ 家康は、安南(ベトナム)・ルソン(フィリピン)・カンボジアに修好を求める書簡を送り、「御朱印船貿易」を求める。
*1602.2.-/ 豊臣秀吉が寄進した西本願寺に対抗して、家康は東本願寺の設立を許可し、以後、浄土真宗は東西の本願寺に分裂する。
*1602.6.28/ コウチ(ベトナム)船が長崎に来航し、家康に象・虎・孔雀を贈る。
*1602.12.28/ 薩摩領主島津家久が、家康から本領安堵を許され、京都伏見城で家康に謁見する。関ヶ原の合戦で西軍に加担した前領主義弘は、家康と一戦を構える姿勢を崩さず、手を焼いた家康は、子の家久に家督を譲った島津家に、そのまま旧領地を本領安堵することで手打ちした。
*1603.4.-/ 出雲阿国が歌舞伎踊りを始め、京の町衆の人気を集める。
*1604.7.17/ 徳川秀忠の次男竹千代が江戸城で誕生し、乳母にお福の方が選ばれる。それぞれ、後の三代将軍家光と春日局である。
*1604.-.-/ 幕府は東海・中山・北陸の三街道を整備し、一里塚を設置する。
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