◎元禄の東西豪商
*1698.2.9/ 寛永寺根本中堂の造営工事が始まる。
*1698.2.9/ 寛永寺根本中堂などの工事で、材木商の豪商紀伊国屋文左衛門は50万両の巨利を得る。
*1698.3.9/ 豪商河村瑞賢が、幕府の地域開発事業への貢献を認められ、旗本に召し出される。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、織豊政権から徳川幕府の初期には、日本の国内統一が進むとともに、海外に展開する機運が広がった。この時代、商人は権力者と結んでその政策に貢献するとともに、特権を得て巨額の富を稼ぎ出す初期の豪商が登場した。しかしその後、家光の時代には鎖国が完成し、一方で交通路の整備などによって国内市場が安定化してゆく17世紀半ばにもなると、それらの豪商は急速に没落していった。
そして17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688年-1704年)には、代わって新興の大商人が現れた。この時代は、文治政治への転換により幕藩体制がいっそうの安定期を迎え、三都とりわけ京・大坂を中心とする上方の経済・文化の繁栄が頂点に達した時期にあたる。
江戸では、天下普請と呼ばれた大仕掛けの土木建築工事が行われ、さらには明暦の大火後の復興工事など、大規模な材木需要が発生した。 「河村瑞賢」は、明暦の大火の際に材木を買い占め、土木建築を請け負うことで莫大な利益を得た。瑞賢は以後、輸送海路を拓いたり、河川の治水工事など、幕府の公共事業に深く関わり、その功績で晩年には旗本に取り立てられた。


一方、上方の大坂は「天下の台所」と呼ばれ、経済の中心として発展していった。諸藩が蔵屋敷を置いて年貢米を売却する大坂では、蔵元・掛屋が集中し、両替商を含めて、蔵者を換金し信用を創出する金融機能が発達し、それらを兼業する商人が成長していった。

南蛮吹きという銅の精錬法によって財をなした大坂淡路町の住友家では、初代「住友吉左衛門(住友家3代友信)」が幕府御用の銅山師となり、その子の友芳が伊予国で別子銅山を発見し、豪商の地位を不動のものにした。
江戸の幕政から距離を置いた大阪では、政商的な投機で儲けるのではなく、このような堅実な事業を展開した豪商が多かった。

その後両替商も開業し、幕府の為替御用を受けるようになり、高利・高平父子の代で三井家惣領の座を確立した。高利は遺言で、身代を惣領の指導に基づく兄弟の共有財産とすることで財産の分割を防ぎ、三井家は強固な結束で江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けた。

この淀屋の繁栄ぶりは、井原西鶴「日本永代蔵」の中でも記されているが、次の5代目淀屋廣當の時、驕奢との理由で全財産を没収された。しかし一説によると、莫大な大名貸しがあだとなったとされている。
(この時期の出来事)
*1696.4.11/ 勘定吟味役荻原重秀が勘定奉行となる。
*1697.7.9/ 綱吉の殊遇を受ける僧隆光の護持院五智堂と、綱吉の生母桂昌院が開基の護国寺観音堂が完成する。
*1697.7.26/ 旗本を対象に、蔵米(俸禄)を知行地に切り替える「地方直し(じかたなおし)」を実施する。(元禄の地方直し)
*1697.7.-/ 宮崎安貞の総合農業技術書「農業全書」が、江戸と京都で刊行される。
*1698.1.-/ 中村七三郎作「傾城浅間嶽」が、京都 布袋屋座で大当たりの120日間長期興行となる。
*1698.5.-/ 松尾芭蕉の句集「猿蓑」が刊行される。
*1698.7.2/ 側用人柳沢保明が、老中の上座に列せられる。
*1699.1.24/ 京都で坂田藤十郎が、近松門左衛門作「傾城仏の原」を演じて大当たりをとる。
*1698.7.2/ 側用人柳沢保明が、老中の上座に列せられる。
*1699.1.24/ 京都で坂田藤十郎が、近松門左衛門作「傾城仏の原」を演じて大当たりをとる。
*1700.12.6/ 徳川光圀、没(73)。
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