◎赤穂浪士討ち入り(赤穂事件)
*1701.3.14/ 赤穂藩主浅野長矩が、江戸城中松之廊下で吉良義央に刃傷に及ぶ。
*1701.4.19/ 赤穂藩元家老大石良雄が、赤穂城を開城する。
*1702.12.15/ 赤穂藩元家老大石良雄らが吉良義央を討つ。(赤穂浪士討ち入り事件)
*1703.2.4/ 幕府が、大石良雄ほか赤穂浪士に切腹を命じる。
*1703/10.-/ 室鳩巣が「赤穂義人録」を著す。
元禄14(1701)年3月14日昼前、江戸城松之大廊下で、浅野(内匠頭)長矩が、吉良(上野介)吉央に斬りかかった。浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小刀で斬りかかった。浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、吉良は眉間に傷を負ったが、命に係わる太刀傷は受けずに済んだ。浅野が吉良に斬りかかったのは、何らかの遺恨があったとされるが詳細は不明である。
斬りかかった場所は、江戸城本丸御殿の大広間につながる松之大廊下であり、刃傷沙汰はご法度の重要な場所だった。事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中であり、しかも高家筆頭の吉良はその接待役の責任者で、浅野は補佐役に任じられていた。
立場・場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対して、第5代将軍徳川綱吉は激怒し、即日切腹を申し付け、浅野が藩主である播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も明け渡しとした。一方、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため、この事件は「喧嘩」と見なされず、吉良側に一切のお咎めは無かった。
浅野内匠頭は一旦田村家の預かりとされたが、即日切腹と決まり、その日の夕刻、田村邸の庭で切腹する。遺体は浅野家の家臣達によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺に埋葬された。
浅野のみ刑に処せられた事に、浅野家家臣達は反発したが、筆頭家老であった大石(内蔵助)良雄は、素直に幕府の申しつけに従い、赤穂城を明け渡したうえで、浅野内匠頭の弟浅野大学の下で浅野家再興を目指す道を選んだ。そして4月19日、家老大石良雄の指揮の下で播州赤穂城は開城された。
赤穂家の江戸詰めの家臣には、堀部安兵衛ら強硬派(江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討つことに拘っていた。城を明け渡してからも、大石たち上方の主流派と堀部たち江戸急進派の対立は続いた。大石は、つてを頼って京都近隣の山科に隠棲し、この地から幕府に対してお家再興の嘆願を出している。
翌 元禄15(1702)年2月15日から数日間、大石内蔵助の寓居する京都の山科で、今後の行く末を決める会議が執り行われた(山科会議)。この時点で大石は、ほぼ討ち入りを決断していたが、浅野内匠頭の三回忌まで待つべきという意見で、会議ではしばらく延期することになった。
その後、浅野大学が閉門と決まり、事実上お家再興が閉ざされたため、堀部ら江戸急進派と大石らお家再興派の対立点は無くなり、7月28日京都祇園円山にある寺院で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に出向き吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。
当初120名ほどいた同志は、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する。大石は連判状の血判を各自に返して、それでも討ち入りをしたいという意志の固い者50人ほどだけに同志を絞った(神文返し)。そして大石は円山会議の約束に従い、11月には江戸に入った(大石東下り)。
すでに浪士たちは生活に困窮しており、もうあまり猶予はなかった。12月2日、頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議)。そして、12月14日に吉良が茶会を開くという情報を得ると、この日を討ち入りの日と決めた。その間にも同志の脱盟が続き、最後まで残った同志は47人となった。
そして元禄15(1702)年12月14日未明、大石内蔵助ほか四十七士は吉良邸に討ち入り、見事、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中、寺坂吉右衛門がどこかに消えたが、その理由は不明である
討ち入りの報告を受けた幕府は、赤穂浪士浪士等の処分に苦慮したが、元禄16(1703)年2月4日、彼らを切腹にする事を決めた。主君の仇(かたき)は、通常、血縁者にのみ適用される「仇討」とは認められず、徒党を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたとされたからであり、その場合は斬首が通常だが、そこは武士の体面を重んじて切腹としたと考えられる。
元禄16(1703)年2月4日、幕府の命により、赤穂浪士達はそれぞれの預かり置かれた大名屋敷で切腹した。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳数枚が敷かれた。当時の切腹は形式化しており、脇差を腹にあてた瞬間に介錯人が首を落とす作法になっていた。赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。
(補記)
討ち入り事件はセンセーショナルな話題になったので、事件直後から人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台に上げられ、資料もそろっており比較的史実に忠実に描かれた。しかし当時は武家社会出来事を舞台演目にするのは禁じられていたため、舞台の時代設定や登場人物の名前は変名とされている。
半世紀近く後、これらの集大成となった二代目竹田出雲ら合作の「仮名手本忠臣蔵」が大ヒット、以後は赤穂義士討ち入り事件は「忠臣蔵」呼ばれるようになる。明治以降になると、幕府の時代から解禁され、「忠臣蔵」は実名で演じられるようになり、大星由良助が「大石内蔵助」として演じられるようになった。
昭和になって映画化されるようになると、毎年の暮れにには、当代の映画スター総出演の「忠臣蔵」が映画館をにぎわせた。ただし実際には、映画で見るような大石が派手な陣羽織に陣太鼓を打ち鳴らすような場面はなく、各浪士は忍者のような目立たない姿で、夜陰に紛れて吉良邸に集まったという。
*1701.4.16/ 岡山藩の閑谷学校が完成する。
*1701.11.26/ 将軍綱吉は、寵愛する側用人柳沢保明に「松平」の姓と「吉」の一字を与え、以後、「柳沢吉保」と改名させる。
*1702.3.19/ 新井白石が、甲府藩主徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)に著書「藩翰譜」(諸大名家の家史)を献上する。
*1702.-.-/ 松尾芭蕉の「奥の細道」が刊行される。
*1703.5.7/ 近松門左衛門作「曽根崎心中」が大坂の竹本座で初演される。
*1703.11.23/ 関東地方に大地震が発生する(元禄大地震)。これがきっかけで元禄から宝永に改元される。
*1703.-.-/ 水戸藩が藩財政の改革を始める(宝永新法)。
*1704.2.19/ 初代市川団十郎(45)が市村座の楽屋で、同じ役者の生島半六によって刺殺される。
*1704.12.21/ 将軍綱吉が、側用人の柳沢吉保を甲府藩5万1千石の藩主にする。
*1705.閏4.10/ 奈良東大寺大仏殿が再建される。
*1705.5.-/ 大坂の豪商淀屋三郎右衛門が、奢侈驕慢をとがめられ闕所(財産没収)所払になる。
*1703.-.-/ 水戸藩が藩財政の改革を始める(宝永新法)。
*1704.2.19/ 初代市川団十郎(45)が市村座の楽屋で、同じ役者の生島半六によって刺殺される。
*1704.12.21/ 将軍綱吉が、側用人の柳沢吉保を甲府藩5万1千石の藩主にする。
*1705.閏4.10/ 奈良東大寺大仏殿が再建される。
*1705.5.-/ 大坂の豪商淀屋三郎右衛門が、奢侈驕慢をとがめられ闕所(財産没収)所払になる。
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