2020年5月19日火曜日

【14C 1381-1400年】

【14th Century Chronicle 1381-1400年】

◎第3代将軍足利義満
*1381.3.11/ 足利義満(24)が造営させた室町第(花の御所)に、後円融天皇(24)が行幸する。
*1383.1.14/ 将軍義満が源氏長者となる。
*1385.8.26/ 将軍義満が、摂政二条義基らと春日社に参詣する。
*1386.10.21/ 将軍義満が丹後の天橋立に遊ぶ。
*1388.9.16/ 将軍義満が駿河に遊覧し、富士山を観る。
*1389.3.11/ 将軍義満が厳島社に参詣し、途中で細川頼之や大内義弘らと会談する。
*1389.9.16/ 将軍義満が高野山に参詣する。
*1391.4.3/ 管領斯波義将が辞任した後、細川頼之の弟で養子になっていた頼元を管領とし、頼之が補佐する。
*1391.2.30/ 京都に攻め上がってきた山名氏清・満幸が、幕府軍に打ち破られ、「六分一衆」と呼ばれた山名氏は大幅に勢力を削がれる。(明徳の乱)
*1392.閏10.5/ 南朝後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を譲る形で、「南北朝合一」が成る。
*1394.12.17/ 足利義満が征夷大将軍を辞任し、子の義持に譲る。義満は太政大臣の職位で、実権は握り続けた。
*1396.9.20/ 延暦寺大講堂供養が行われ、義満(39)は法皇の行幸を擬した様式で受戒し、その権威を知らしめた。
*1397.4.16/ 京都北山の北山第(金閣)の上棟が行われ、義満は出家後の政庁としてこの地を定める。
*1398.6.-/ 義満が畠山基国を管領に抜擢し、三管領・四職の制が整う。
*1399.11.29/ 幕府軍が、大内義弘の和泉堺城を攻撃する。(応永の乱)

f:id:naniuji:20190708100236j:plain  足利義満は、正平13(1358)年8月、2代将軍義詮の子として生まれ、正室の子が夭折したため、早くから嫡男として扱われた。義満が幼少のころ、幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱など、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。

f:id:naniuji:20190708100549j:plain 正平21(1366)年、後光厳天皇から義満との名を賜り従五位下に叙せられた。翌 正平22(1367)年、義詮は重病となると、義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見を託したのち死去し、義満(10)が第3代将軍として足利将軍家を継いだ。


 天授4(1378)年には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした(室町第)。「室町幕府」という呼称は室町第の所在地に由来し、やがて「花の御所」と呼ばれ、義満の代による繁栄の象徴となる。

f:id:naniuji:20190708100401j:plain 本格的に政務を仕切るようになった義満は、京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。


 1382年には相国寺の建立、1385年には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、1388年には駿河で富士山を遊覧し、1389年には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーションで、義満は自らの権勢を誇示した。

 一方で1379年、幕府内の対立で、管領細川頼之の罷免を求められ、後任の管領に斯波義将を任命するなど内紛があるが、細川・斯波の抗争を利用して将軍権の強化を図ったともみられる。さらに1391年には、「六分一殿」と称された有力守護大名山名氏の内紛に介入し、討伐する(明徳の乱)。


 鎌倉時代以来猛威を振るった寺社勢力に対しても、興福寺や延暦寺の僧徒が神木や神輿を奉じての強訴に慄く公家たちを差し置いて、義満はまったく動ぜずこれらを鎮圧し、一方で仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けで、これらの勢力をも指揮下に置いた。

 そして義満は、1378年に右近衛大将に任ぜられ、さらに権大納言を兼務するなど、公家社会でも地位を高め、1383年には内大臣、左大臣に就任し源氏長者となって、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰め、公武の一体化を推し進めた。


 1392年には南朝方の主要武将楠木正勝の河内国千早城が陥落し、南朝勢力が衰微すると、義満は南朝の後亀山天皇と和平をすすめ、北朝の後小松天皇に吸収する形で、南北朝の合一を実現させた(明徳の和約)。

f:id:naniuji:20190708100642j:plain  義満は応永1(1394)年には、将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居するが、政治上の実権は握り続け、同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号したが、これは征夷大将軍や太政大臣として公武の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためとされる。


 義満は早くから明との交易を望んでいた。しかし当時の明王朝は、中華思想から朝貢貿易しか認めておらず、太政大臣や征夷大将軍という天皇の臣下の身分では相手にされなかった。そこで義満は、太政大臣を辞し出家した。

 応永8(1401)年、明皇帝は義満を「日本国王」に冊封し、両国の国交が正式に樹立され、応永11(1404)年から勘合貿易が始められた。なお「日本国王」とは、明の皇帝が臣下として冊封国の代表と認めた称号に過ぎず、決して義満が天皇に代わって皇位を簒奪したという意味ではない。


f:id:naniuji:20190708100715j:plain 応永4(1397)年、義満は京都北山に舎利殿(金閣)を中心とした「北山殿(鹿苑寺)」を造営し、本格的にこの山荘に移り住むと、ここを活動の拠点とした。この義満の治世に開花した文化は、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した「北山文化」と呼ばれる。応永15(1408)年4月、義満は病に倒れ、5月6日に死去する。享年51。


(この時期の出来事)
*1383.3.27/ 南朝の征西将軍として、九州で勢力を広げた懐良親王(55)が、隠棲先で失意のうちに亡くなる。
*1384.5.4/ 能楽を大成した観阿弥が、静岡の浅間社で能を演じる。その半月後、死去する。
*1399.5.10/ 一条竹鼻で、世阿弥らが勧進猿楽を行う。

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