◎南北朝の動乱
*1361.12.8/ 楠木正儀・細川清氏の南朝軍が京都に迫り、将軍足利義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れる。
*1362.9.-/ 鎌倉公方足利基氏が、畠山国清を降伏させる。
*1363.3.24/ 鎌倉公方基氏が、上杉憲顕を関東管領に任命する。
*1364.7.7/ 北朝の光厳法皇(52)没。
*1367.4.29/ 南朝と幕府の講和が不調に終わる。
*1367.11.25/ 病床の将軍義詮が、政務を足利義満(10)に譲り、細川頼之(39)を執事(管領)とする。まもなく義詮(38)は死去する。
*1368.3.11/ 南朝の後村上天皇(41)が没する。
*1368.12.30/ 足利義満が、第三代室町将軍となる。
*1369.1.2/ 南朝方の楠正儀が幕府に降伏する。
*1371.2.19/ 今川了俊が九州探題となる。
*1373.8.10/ 南朝から幕府に帰順した楠正儀が、天野行宮を襲う。長慶天皇は吉野に逃れる。
*1378.3.10/ 将軍義満が、花の御所と呼ばれる室町の新邸に移る。
*1379.閏4.14/ 管領の細川頼之が、義満に解任され京都を去る。代わって斯波義将が後任の管領に任命される。(康暦の政変)

元弘3(1333)年、大覚寺統の「後醍醐天皇」は討幕の綸旨を発し、これに応えた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府を滅ぼし、元弘3(1333)年6月、「建武の新政」がはじまった(元弘の乱)。しかし、すでに浸透していた武士社会の慣習を無視した後醍醐天皇の親政は、実質上、鎌倉幕府を滅ぼした武士たちの支持を得られなかった。

後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞や北畠顕家や楠木正成らの奮闘に苦戦するが、湊川の戦いで楠木正成に勝利して入京する。延元1(1337)年11月、足利尊氏は、持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)し、建武式目で施政方針を定めて正式に幕府を開いた。

南朝方は北畠顕家・新田義貞らが次々と戦死し、さらに延元4(1339)年8月、後醍醐天皇が崩御して、北朝方が圧倒的に優位に立つ。正平3(1348)年には、四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・正時兄弟が高師直に討たれ、吉野行宮が陥落すると後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、南朝は消滅の危機に追い込まれる。
しかしその後、足利政権の政務を担う足利直義と、足利家執事で軍事を担当する高師直との対立が表面化、直義が高兄弟を討つと、さらに足利尊氏と直義の兄弟が対立することになる。正平6(1351)年には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝と講和し、「正平一統」が成立した。
尊氏は、鎌倉へ逃れた直義を追って東海道を進み、破れた直義は鎌倉で幽閉された後、急死する(観応の擾乱)。南朝方はこの機に乗じて京都へ進攻し、神器を接収し北朝の上皇や天皇を賀名生へ連れ去った。北朝は、後光厳天皇を神器無しで即位させ、再度尊氏が将軍に復帰するなど、混乱が続く。

南朝は強硬路線をとったことで、中心的武将の楠木正儀を失い、かえって勢力を落とす。南朝が衰微していく一方で、第3代将軍足利義満が実権を集中的に握ると、その勢力差は歴然となった。

このような情勢の中で元中9(1392)年、足利義満の差配で、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡す形で南北朝が合体した(明徳の和約)。権力を確固たるものにした義満は、北小路室町に「花の御所」と呼ばれる将軍邸宅を築き、太政大臣にまで昇進し、その御所の場所から、後に室町幕府と呼ばれる時代の最盛期を迎える。
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