◎勘合貿易(日明貿易)
*1401.5.13/ 足利義満が、博多の商人肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣する。(明と本格的通交開始)
*1402.9.5/ 義満が北山第で明使と会見する。明永の楽帝は足利義満を「日本国王」に冊封した。
*1404.5.16/ 義満が北山第で明の使節と会見、勘合府を受領する。
*1407.8.5/ 永楽帝の勅書を携え来日した明使が、北山第で義満に会見、銅銭ほか「日本国王」の印と勘合府100通をもたらし、10年に1回の勘合貿易が開始される。
*1411.9.9/ 将軍義持は来日した明使の上洛を許さず、兵庫から使節は帰明し、明との国交が中断する。
足利義満は、早くから明との正式な通交を望んでおり、応安7(1374)年や康暦2(1380)年に遣使したが、明側は天皇の臣下との通交は認めないとして、幕府の交渉は実らなかった。
義満は応永1(1394)年に将軍職を嫡男の足利義持に譲り出家し、太政大臣をも辞して、天皇の臣下ではない自由な立場となった。そして応永8(1401)年、博多商人肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する。翌1402年の明使在日中に永楽帝が即位し、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した。
以後、応永8(1401)年)から天文18(1549)年まで、19回に渡り交易が行われた。応永11(1404)年以降は「勘合符」を照合する仕組みになり、回数などが制限された交易となり、これが「勘合貿易」と呼ばれた。勘合符を照合するのは、当時横行した「倭寇」と峻別する目的でもあった。
当時の明王朝は強固な中華思想を信奉しており、冊封された周辺民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の「朝貢貿易」しか認めなかった。そのため、室町幕府足利義満将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に朝貢し、明皇帝からの下賜物を持ち帰る形式であった。
勘合貿易は対等取引ではなく、明は皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の強大さを示すため、明からの下賜品は、日本からの朝貢品を大きく上回る価値をもたらした。
支配権確立のため豊富な資金を必要とした義満は、名分を捨て臣下として朝貢する形で実利を取ったといえる。義満は明皇帝に対して、「日本国王」という臣下の礼で拝したが、これは日本国内では問題とされ、義満死後の応永18(1411)年、4代将軍足利義持は勘合貿易を一時中断する。
義満の生前には、義持は将軍職を譲られたにもかかわらず実権は与えられず、次男の義嗣の方が可愛がられていた。そのため義満が亡くなると、義持は義満の政策を否定し、北山第を廃して三条坊門邸に移るなど、いくつも反義満の政策を採った。勘合貿易の中断も、その私怨にもとづくものと見られる。
勘合貿易は永享4(1432)年、6代将軍足利義教時代になって、やっと復活されることになる。応仁の乱以後、室町幕府の権威が弱まると、堺や博多の商人が抽分銭を納めて貿易を代行するようになり、細川氏や大内氏など有力守護大名がその支持者となっていった。
(この時期の出来事)
*1408.3.8/ 後小松天皇が北山第に行幸する。義満は天皇と同格の席に着くなど、その栄華をきわめる。
*1408.4.25/ 義満の次男義嗣が、親王に準じる形で禁中で元服する。
*1408.5.6/ 将軍義満(51)没。太上法皇の尊号が送られるも、嫡子義持が辞退する。
*1408.6.22/ 南蛮船が若狭小浜に来着、象・鸚鵡などをもたらす。
*1409.2.10/ 将軍足利義持は、北山第を破却し三条坊門邸の建設を始める。
*1410.11.27/ 後亀山法皇が、南北合一後の幕府の処遇に不満のため、南朝旧臣の勢力下の吉野に出奔する。
*1414.9.1/ 北畠親房の曽孫で伊勢国司北畠満雅が、称光天皇の即位に反対し、大和・伊勢などの旧南朝勢力を率いて蜂起する。
*1416.10.30/ 将軍義持の弟足利義嗣が挙兵に失敗、洛西高尾に逃れ出家する。
*1418.6.25/ 大津の馬借が、祇園社神輿を奉じて強訴する。
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