◎承久の乱
*1221.5.15/ 後鳥羽上皇が、京都守護を討ち、北条義時追討の院宣を下す。(承久の乱)
*1221.5.19/ 北条政子(65)が、関東武士に結束を求めて鼓舞する。
*1221.6.15/ 執権北条義時の嫡子泰時と弟時房の率いる幕府の大軍が入京、後鳥羽上皇は院宣を取り消し、鎌倉側に屈服する。
*1221.7.13/ 幕府は後鳥羽上皇を隠岐に配流する。



譲位して後鳥羽上皇となり、後白河法皇・源頼朝も死去したあとは、名実ともに治天の君として院政を仕切った。鎌倉を本拠にした東国政権は、西国への支配は充分に及ばず、いまだ朝廷・院の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。


承久の乱の後、朝廷は幕府に事実上従属することになる。また、上皇はじめ京方に着いた公家・武家の多くの土地が没収され、戦功をあげた御家人に給付したため、多くの御家人が西国に移り住み、幕府の支配が畿内にも定着した。
この朝廷と武家政権の間で起きた「承久の乱」の結果、東西の二重政権状態は完全に払拭され、鎌倉幕府(=北条得宗家)による武家封建体制が確立されたと言われる。
◎執権北条泰時と御成敗式目
*1224.6.28/ 北条義時が没し(62)、北条政子の差配で義時の嫡子「泰時」と弟「時房」両名を将軍後見とし、事実上の2人執権体制が始まる。
*1224.閏7.3/ 義時の後妻伊賀氏の伊賀光宗らが、一条実雅を将軍に擁立を図るが失敗。
*1225.7.11/ 北条政子(69)没。
*1225.12.21/ 幕府は「評定衆」を定め、裁判・政務を合議評決する評議政治体制を決める。
*1232.8.10/ 第3代執権北条泰時が、「御成敗式目(貞永式目)」を制定する。

承久3(1221)年の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入る。戦後も京に留まり、叔父の北条時房とともに、朝廷の監視・畿内以西の御家人武士の統括など、西国を治める重要拠点の「六波羅探題」を確立した。

貞応3(1224)年、父義時が急死すると、伯母である尼御台北条政子の後見のもと、家督を相続し42歳で第3代執権となる。さらに嘉禄1(1225)年6月に有力幕臣大江広元、7月には政子が世を去ると、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮するようになる。

承久の乱後、幕府の勢力が西国に広がると、新たに地頭として派遣された御家人と従来からの荘園領主らとの法的な揉めごとが増加するようになった。一方で、幕府成立以降、成文法が存在せず、武士の慣習法や先例に基づいて裁判をしてきたが、幕府成立から半世紀近くたって、膨大な先例・法慣習が形成され煩雑化してきた。


それまでの律令が中国法、明治以降の各種法律が欧米法を基礎として制定されたものであるのに対し、御成敗式目は日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で重要であり、それもあって、鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効で、室町から江戸時代を通じて、武家法典の指針となった。
(この時期の出来事)
*1222.-.-/ この頃、「平家物語」が完成する。
*1224.-.-/ この年、親鸞が「教行信証」を著す。
*1227.-.-/ 僧 道元が宋より帰国、曹洞宗を伝える。
*1235.5.27/ 藤原定家が、和歌百首を選ぶ。小倉百人一首の原型か。
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