◎鎌倉幕府と北条執権政治
*1199.1.13/ 源頼朝(53)没。長男頼家(18)が鎌倉殿を継ぐ。
*1202.7.23/ 源頼家が従二位に叙せられ、征夷大将軍に任じられる。
*1203.9.2/ 源頼家の近臣 比企能員が、北条時政に討たれる。(比企氏の乱)
*1203.9.29/ 源頼家が、執権となった北条時政に伊豆修善寺に幽閉され、将軍職も弟実朝(12)に譲らされる。
*1205.閏7.20/ 北条時政(68)が、実子の政子・義時姉弟により伊豆へ追放され、義時(43)が執権となる。
*1213.5.3/ 侍所別当 和田義盛(67)が挙兵するが、敗死する。
*1219.1.27/ 将軍源実朝(28)が、鶴岡八幡宮で、頼家の遺児で同宮別当公暁(20)に殺される。
*1219.3.15/ 後鳥羽上皇(40)の地頭罷免要求を、執権北条義時(57)は弟時房(45)を上京させ断固拒否する。
鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝(53)は、正治1(1199)年1月に急死する。頼朝の嫡男「頼家(18)」が跡を継いで2代将軍となるが、若年の頼家による政治には不安があり、母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれた。
頼家の外戚として後ろ盾であった比企能員(ひきよしかず)は、弟の実朝を担ぐ北条氏と対立し、北条氏に謀殺され、一族は滅ぼされる。建仁3(1203)年9月、頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺される。頼家追放により、弟の「実朝」を後継の3代将軍に据えた北条氏が、鎌倉幕府の実権を握る事になる。
北条氏の長「北条時政」は、将軍実朝を補佐し政治の実権を握ったが、元久2(1205)年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。
しかし、時政の実子である北条政子・義時姉弟はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して時政を伊豆国に追放する。その後、「北条義時」が執権となり、建保1(1213)年2月、対抗勢力となった侍所別当の和田義盛を挑発し、挙兵させて滅ぼした(和田合戦)。
そして承久1(1219)年1月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍実朝が頼家の子公暁によって暗殺される。これにより頼朝の直系が断絶し、幕府は朝廷へ親王将軍を要望したが、後鳥羽上皇はこれを拒否する。
曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が、新将軍として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
「北条時政」は、源義朝の挙兵時に駆け付けた有力豪族に過ぎなかったが、娘の政子が頼朝の妻になるとともに、徐々に信任を得て有力な重鎮の一人となった。頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、侍所別当梶原景時が失脚したあと、頼家の外戚となった比企能員を滅ぼし、頼家の将軍位を廃して実朝を将軍に擁立して実権を握った。
時政は、重鎮 大江広元と並んで政所別当に就任し、建仁3(1203)年初代執権に就いたとされるが、この時期に執権と呼ばれたかどうかは不明。元久2(1205)年に、時政は実朝を廃して娘婿を将軍に擁立しようとしたが、実子である政子・義時らに阻まれ、時政は伊豆に追放され政治生命を終える。
父時政を追放して2代執権となった「北条義時」は、梶原景時、比企能員ら有力御家人排除に際しては、父時政に協力して行ったが、元久2(1205)年の畠山重忠の乱や続く牧氏事件では、時政・義時の父子が対立するようになる。
時政が、牧の方との間の娘婿を将軍に立てようとするのを、先妻の子である義時・政子らは、それを阻止して時政を追放する(牧氏事件)。義時はさらに、北条執権体制の障害となる有力御家人を排除していく。
幕府創設以来の重鎮で侍所別当の和田義盛を、建保1(1213)年、和田合戦において滅ぼし、義時は侍所別当となり、政所別当と合わせて枢要な職を占めると、これにより「執権」と呼ばれるようになる。
承久1(1219)年、実朝が暗殺され源氏の正統が断絶したため、幕府は新将軍として後鳥羽上皇の親王の鎌倉下向を要請するが、上皇はこれを拒否し、逆に上皇所縁領地の地頭廃止を要求してくる。幕府方はこれを拒否したが、上皇と義時の関係は悪化し、承久3(1221)年の「承久の変」へと繋がってゆく。
(この時期の出来事)
*1202.-.-/ 栄西が、臨済宗総本山建仁寺を創建する。
*1203.10.3/ 運慶と快慶が、東大寺南大門の金剛力士像を彫る。
*1205.3.26/ 勅撰和歌集「新古今和歌集」が、藤原定家らにより撰進される。
*1207.2.18/ 既成仏教の圧力により、専修念仏が禁じられ、法然が土佐、親鸞が越後に配流される。
*1212.330/ 鴨長明が随筆「方丈記」を著す。
0 件のコメント:
コメントを投稿