◎律令制の成立
*701.8.3/ 「大宝律令」が完成する。
*717.-.-/ 藤原不比等らが「養老律令」10巻を編纂する。
*720.8.3/ 藤原不比等(63)が死去し、養老律令の編纂は一旦中断する(757年に施行)。


ただし、浄御原令は律を伴っておらず、やがて大宝元(701)年8月、「大宝律令」が完成された。持統上皇・文武天皇の治下、律令選定には刑部親王・藤原不比等らが携わった。翌 大宝2(702)年10月には、文武天皇の命で大宝律令は諸国に頒布された。

大宝律令の原文は現存していないが、おおむね大宝律令を継承しているとされる養老律令を元にして、その復元が行われている。刑法にあたる「律」はほぼ唐律をそのまま踏襲し、行政法および民法などにあたる「令」は日本社会の実情に配慮して制定されている。

◎平城京遷都
*708.12.5/ 平城宮の地鎮祭が行われる。
*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。
*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。
*711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。

飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、持統8(694)年から和銅3(710)年までの16年間、持統・文武・元明の3代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。
しかし、和銅元(708)年に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3(710)年に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。


すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。


しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。
(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。
0 件のコメント:
コメントを投稿