2020年4月15日水曜日

【8C 701-720年】

【8th Century Chronicle 701-720年】

◎律令制の成立
*701.8.3/ 「大宝律令」が完成する。
*717.-.-/ 藤原不比等らが「養老律令」10巻を編纂する。
*720.8.3/ 藤原不比等(63)が死去し、養老律令の編纂は一旦中断する(757年に施行)。

f:id:naniuji:20191016124656j:plain 大化の改新における4つの施策方針で、律令制への指針が示されたが、律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。天智天皇は豪族を再編成し、大王(天皇)へ権力が集中する体制作りを進め、日本史上最初の戸籍とされる「庚午年籍」が作成され、班田収授制を確立しつつあった。


f:id:naniuji:20191016124747j:plain その実在は不確かながら、この時期に先駆的な近江令が制定されたという説がある。そして壬申の乱後の天武朝681年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の持統3(689)年6月に飛鳥浄御原令が制定された。

 ただし、浄御原令は律を伴っておらず、やがて大宝元(701)年8月、「大宝律令」が完成された。持統上皇・文武天皇の治下、律令選定には刑部親王・藤原不比等らが携わった。翌 大宝2(702)年10月には、文武天皇の命で大宝律令は諸国に頒布された。


f:id:naniuji:20191016124859j:plain 養老2(718)年、元正天皇が藤原不比等に大宝律令の再検を命じたが、720年の藤原不比等の死によりいったん中断され、その成果は757年に「養老律令」としてまとめられ、大宝律令に代わって施行された。

 大宝律令の原文は現存していないが、おおむね大宝律令を継承しているとされる養老律令を元にして、その復元が行われている。刑法にあたる「律」はほぼ唐律をそのまま踏襲し、行政法および民法などにあたる「令」は日本社会の実情に配慮して制定されている。


f:id:naniuji:20191016124824j:plain この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限が与えられ、地方豪族を郡司などに任命し、地方の支配体制を再編成していった。そして、名実ともに律令体制の完成を示すためにも、かつてなかった広大な平城の地に新都の建設が進められた。


◎平城京遷都
*708.12.5/ 平城宮の地鎮祭が行われる。
*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。
*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。
*711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。
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 飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、持統8(694)年から和銅3(710)年までの16年間、持統・文武・元明の3代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。

 しかし、和銅元(708)年に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3(710)年に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。


f:id:naniuji:20191018114331j:plain 和銅3(710)年3月の遷都時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備されたが、寺院や邸宅および庶民の住居などは、その後段階的に造営されていったもようである。平城遷都を主導した藤原不比等は、率先して藤原氏の氏寺を興福寺と改名し移転、新都の隆盛をはかった。また、中央と地方を結ぶ街道も整備され、畿内など4国に7駅が置かれ、交通網が整えられた。
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 すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。


f:id:naniuji:20191018113438g:plain 平城京遷都は、実質上、藤原不比等が仕切ったと考えられる。不比等は、持統天皇から譲位された文武天皇の即位に関わったとされ、娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして生まれた首皇子(のちの聖武天皇)を天皇にすることを企んだ。さらに首皇子にも、娘 光明子を嫁がせて、外戚となることを目指していた。
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 しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。


(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

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