2020年3月30日月曜日

【5C 401-500年】

【5th Century Chronicle 401-500年】

◎倭の五王
*421/ 倭王「讃」が、420年に興った宋に朝貢し、武帝から除授の詔をうける。
*438/ 倭王讃没し、倭王「珍」が宋に朝貢、「安東大将軍倭国王」の称号を受ける。
*443/ 倭王「済」が宋 文帝に朝貢して、「安東将軍倭国王」の称号を受ける。
*451/ 倭王「済」が宋に朝貢し、将軍号・倭国王などの称号を受ける。
*462/ 倭王「興」が宋に朝貢し、「安東将軍倭国王」の称号を受ける。
*478/ 倭王「武」が宋に使いを送り、朝貢・上表するも、翌479年、宋は滅亡し、南斎が興る。
*479/ 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王「武」が「鎮東大将軍」(征東将軍)の称号を受ける。
 *502/ 南斉が滅亡し、梁の武帝が王朝樹立、倭王「武」が「征東大将軍」の称号を受ける。

 中国史における南北朝時代、南朝の宋(420年-479年)の歴史書「宋書」に、倭国から五人の王の使者が朝貢してきたことが記されている。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀の間に朝貢した「讃・珍・済・興・武」という倭の五王がそれであるが、日本側の史料「古事記」と「日本書紀」には、それに該当する朝貢の史実は記されていない。

 この当時の倭国はヤマト王権の成立期にあたり、諸豪族の連合体に近い状態であって、国内の支配を安定させる必要があった。そのために、中国の先進的な文明を受け取るとともに、中華皇帝の権威に基づいた称号を得て諸豪族を統率しようとした。


 また当時、ヤマト王権は朝鮮半島に権益をもっており、半島諸国との外交を有利に進めるためにも、中国皇帝の承認を必要とした。倭の五王たちは、「安東大将軍 倭王」といった称号を賜り、一定の公認を得たが、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して格下であり、これらは中国にとっての地政学的な重要性を反映したものであった。


 倭の五王は、1世紀近く続いた朝貢を、478年の遣使を最後として打ち切っている。これは宋が滅びたということもあるが、この時期に並行して、倭王が中国の冊封体制から離脱し、独自のヤマト王権を目指し出したのだと思われる。同時期のものとされる「稲荷山古墳出土鉄剣」や「江田船山古墳出土鉄剣」の銘文では、それまでの「王」から「大王」への変化が見られ、ヤマト王権が強化されつつある傍証と考えられる。


 宋書では、倭の五王が「讃・珍・済・興・武」と一字の中国風の名で記されているが、それぞれがどの天皇に対応するのか、比定するのは一筋縄ではいかない。一方、宮内庁が示す「天皇一覧」の天皇名では、「漢風諡号」や「追号」が用いられている。

 「諡号(しごう)」とは「諡(おくりな)」であり、貴人の死後に贈られる尊号なので、生存中の名ではない。しかも記紀の時代には漢風諡号をおくる風習は無く、奈良時代後期の文人 淡海三船が一括に撰進したとされる。


 また、故人の業績などにちなむ「諡号」が使われなくなった時代には、単に縁がある物事にちなんだだけの「追号」が付けられた。昭和時代の天皇だったから「昭和天皇」と呼ぶがごとくであって、現在在位中の天皇は「今上天皇(今のミカドのこと)」としか呼ばない。

 年代的には、15代応神天皇から21代雄略天皇の間の天皇がほぼ五王に対応し、「讃=仁徳」「珍=反正」「済=允恭」「興=安康」「武=雄略」などと比定されるが、いくつか異同が考えられ決め手は無い。


 倭王の朝貢に関する記述が「記紀」に見られないこと、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武といった一字の中国風の名の記録が存在しないこと、「古事記」に掲載された干支と倭の五王の年代に一部齟齬が見られることなどから、「倭の五王」はヤマト王権とは別の地域国家の王とする説も存在する。

 なかでも、九州にあった別の政権であるとする説は根強く、古くは邪馬台国の所在地と同様、北九州説と大和説が並立する。これは、ヤマト政権により統一が進められる進捗過程との兼ね合いで、九州の地方政権が、ヤマト政権に統合される時期と連動する。


◎古墳の造営盛ん
*400頃/ 大阪に、100基以上の巨大古墳群の造営ラッシュ。
*450頃/ 古墳に大量の鉄製品が埋納される(奈良県山6号墳・大阪府野中古墳)。
*450頃/ 形象埴輪がさかんに立てられるようになる(群馬県赤堀茶臼山古墳)。
*450頃/ 各地に横穴式石室をもつ古墳が現れる(福井県向山古墳)。
*470頃/ 下賜された銘文鉄剣が副葬される(稲荷台1号墳)。
*490頃/ 須恵器が東北・北海道へもたらされる(柏木B遺跡)。
*500頃/ 辛亥年銘鉄剣が大型前方後円墳に副葬される(稲荷山古墳)。
*500頃/ 銘文太刀が前方後円墳に副葬される(江田船山古墳)。

 「古墳時代」は、縄文時代・弥生時代につづく考古学上の時期区分で、記紀による文献上の時代区分「大和時代」とほぼ重なり、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すのが一般的である。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末まで、「前方後円墳」が北は東北から南は九州まで造り続けられ、「前方後円墳の時代」と呼ばれることもある。

 特に 西暦266年から413年にかけて、中国の歴史文献における倭国の記述がなく、古墳の発掘など考古学的アプローチが重要となる。特にこの時期はヤマト王権が確立されていく時期であり、卑弥呼の邪馬台国から倭の五王への時代の歴史的空白の解明が期待される。


  5世紀は古墳時代中期とされ、巨大な前方後円墳などが築造された最盛期にあたる。王墓の大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、巨大化した人物埴輪が現れる。畿内の大型古墳の竪穴式石室が幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。

巨大古墳が出現し、副葬品には馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなり、5世紀の終わりには畿内に先進的な群集墳が現れ、ヤマト地域に強大な王権が成立してゆくさまがうかがえる。




(この時期の代表的な古墳)

「大仙陵古墳」
 大阪府堺市堺区大仙町にある古墳で、日本最大の前方後円墳であり、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。被葬者は明らかでないが、宮内庁では「仁徳天皇」の陵墓としている。2019年7月ユネスコにより、仁徳天皇陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は世界文化遺産として登録されることになった。


「誉田御廟山古墳」 (こんだごびょうやま)
 大阪府羽曳野市誉田にあり、前方後円墳で古市古墳群を構成する古墳の1つ。被葬者は明らかでないが、宮内庁により「応神天皇」の陵に治定されている。大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳。


「上石津ミサンザイ古墳」
 大阪府堺市西区石津ヶ丘にある前方後円墳で、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。同じく被葬者は不明で、宮内庁は「履中天皇」としている。大仙陵古墳・誉田御廟山古墳に次ぐ第3位規模の巨大古墳である。


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