2020年4月7日火曜日

【6C 501-540年】

【6th Century Chronicle 501-540年】

◎古代王権の動揺
*507/ 前年の武烈天皇の没後、紛糾が続いていた新大王(おおきみ)に、近江の越を基盤とする男大迹王(おほどおう)が即位し、継体天皇となる。
*527/ 筑紫の国造磐井が大規模な反乱を起こすも、翌年、物部麁鹿火(あらかい)に斬られる。
*531/ 継体天皇没。以後、539年まで王権の分裂状態が続く。
*539/ 宣化天皇が没し、王権は欽明天皇に一本化される。

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 第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したあと、有力豪族の大連 大伴金村・物部麁鹿火、大臣 巨勢男人ら有力豪族が協議したが、なかなか適任が見つからず、やっと越前にいた応神天皇5世の孫「男大迹王(おほどおう)」を迎えることになった。

 507年、58歳で即位し「継体天皇」と諡号されたが、応神天皇5世(5世代目)という血筋の隔たりや、即位19年後の526年(77歳となる)にして初めてヤマト国に入るなど、記紀の記述の不自然さにより、ヤマト政権とは無関係な地方豪族が、王位の簒奪によって新王朝を創始したとする王朝交替説がとなえられる。


f:id:naniuji:20191106234214j:plain 翌 継体21(527)年、ヤマト政権は、新羅に奪われた加羅の回復のため出兵しようとするが、新羅とつながりのあった筑紫(九州地方北部)の豪族 磐井(いわい)がこれを妨害し、翌年物部麁鹿火(あらかい)によって鎮圧されたという(磐井の乱)。

 継体天皇は大王位を継承するに際し、皇統を補完するためか、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れている。531年、安閑天皇が継体天皇の後を受けて66歳にして即位、536年、宣化天皇が69歳にして即位するが、ともに在位が数年で死去した。
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 539年、継体天皇と手白香皇女の子で嫡子とされた広庭が即位し、欽明天皇と諡される。安閑・宣化の高齢による即位や、記録上の即位年の混乱などから、継体から欽明の即位までに、なんらかの政変があったのではとする仮説がある。

 安閑・宣化の系列と欽明朝は別々の系統であり、両朝が並立していたとする説もあるが、欽明天皇によって、応神の男系血統と仁徳天皇以来の王朝の血統を統合したとされ、現皇統へと続く祖となった。


f:id:naniuji:20191106234414j:plain 当時のヤマト政権は、大王(おおきみ)を中心にした有力豪族の連合政権的性格が強かった。氏姓制度のもとで、「大連」の大伴金村と物部尾輿や「大臣」の蘇我稲目が大王を支える体制であったが、欽明天皇元(540)年、半島政策の失敗で大伴金村は失脚する。

 物部氏と蘇我氏の二極体制となり、とくに蘇我稲目は次々と娘を大王の妃に送り込み勢力を増してゆく。物部氏と蘇我氏の対立は、尾輿・稲目の子 物部守屋と蘇我馬子の代に引き継がれ、用明天皇2(587)年、用明天皇崩御後、次の天皇擁立で争うと、馬子が守屋を殺し、蘇我氏の全盛期となる。


(この時期の出来事)
*513.6.-/ 五経博士が来日し、継体天皇に謁見する。
*538.-.-/ 百済の聖明王から仏像・経論が贈られる。(仏教公伝)

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