2020年3月27日金曜日

【1-4C 001-400年】

【1st-4th Century Chronicle 001-400年】

◎中国史書での倭国の様子
*057/ 倭の「奴国王」が後漢に朝貢し、金印を授与される(後漢書東夷伝)。
*107/ 倭国王帥升が、後漢に生口(奴隷)などを献じ朝貢する。
*184頃/ 倭国で大乱がつづく。
*239/ 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送り、魏の明帝は卑弥呼を親魏倭王の称号を送り、金印を授ける(魏志倭人伝)。
*266/ 倭の女王(壱与?)、西晋に遣使し、朝貢する。
*391/ 倭が渡海して、百済・新羅を破る。

 中国大陸では早くから文明が開け、紀元前221年に始皇帝が「秦」の帝国を建てた。その後、劉邦と項羽が覇権をめぐって争い(楚漢戦争)、紀元前202年に、劉邦が項羽を破り「漢」の大帝国を樹立する(前漢)。漢帝国は紀元8年に一旦中断するが、まもなく漢王朝が復興された(後漢)。

 やがて黄巾の乱で漢が滅びると、「魏・呉・蜀」の三国が鼎立する「三国時代」となる。280年には三国を統一した司馬炎が「晋」を建てた(西晋)。しかし300年ごろから内乱が起こり、「南北朝時代」と呼ばれる小国分立の時代がやってくる。


 中国北部には異民族の侵入が続き、「北朝」は「五胡十六国」と呼ばれる異民族の国が乱立し、やがて「北魏」が台頭し439年に華北を統一する。しかし北魏は西魏と東魏に分裂しさらに王朝が交代し、589年に「隋」が中国統一するまで、混乱が続く。

 南朝では、江南に避難した晋王朝(東晋)が支配するが、その後、隋による統一までに宋・斉・梁・陳という4つの王朝が短期間で交代し、420年 から479年の半世紀あまり続いた「宋」の時代に、「倭の五王」の朝貢の記録が見られる。


 これらの時期、日本(倭国)では8世紀前半に「古事記・日本書紀」が登場するまで、歴史的な記録がほぼ無いに等しいので、中国の歴代王朝の史書に頼るしかない。しかも記紀の前代の記述は伝聞や記憶によるもので、神話的な矛盾を含んだものが多くなる。

 かくして、記紀などにおける記述と、中国史書などでの断片的な倭国関連の言及と、そして考古学的な事実との照合による「歴史」の研究が必要となる。とりわけ、247年、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ったという記述(魏志倭人伝)と、421年以降の倭の五王の朝貢の記録(宋書夷蛮伝)との間の空白期間は、まさにヤマト王権の成立期にあたり、重要な日本の古代史に研究の余地が残されている。


 「後漢書東夷伝」には、紀元57年「倭奴国は貢物を奉じて朝賀した」と記されており、「漢」の光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。そして、江戸時代に農民により博多湾の志賀島から「漢委奴國王」と刻まれていた金印が発見され、倭奴国が実在したことが証明された。

 そして「魏志倭人伝」では、238年「邪馬台国」の女王「卑弥呼」が、帯方郡を通じ「魏」に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられ金印を授けられたと記されている。邪馬台国については数度にわたって記述があるが、その所在地については不明で、長年、北九州説と大和説が議論されている。


  3世紀半ばに、倭の女王(邪馬台国 壱与?)が西晋に朝貢したという記述以降、その後1世紀半にわたって倭国に関する言及が無くなる。そして倭の五王の朝貢が「宋書」に登場するが、中国王朝の頻繁な交代のせいもあり、この空白期間にヤマト政権がどのように成立していったのか、考古学的事実から推定するよりない。

 邪馬台国がどこにあったのか、ヤマト政権との繋がりがあるのか無いのか、このあたりが古代政権の確立時期にも大きく影響を及ぼしてくると同時に、古代の歴史の最大の謎となっている。

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