【09.ロシア革命に関するメモ】
〇 ロシア革命と「二段階革命論」
「二段階革命論」では、まずツァーリと封建領主による支配の封建制・絶対君主制を打ち破る「ブルジョア民主主義革命」が必要であり、その下で資本主義が発展した後に「プロレタリア社会主義革命」を行われる、というものであった。
本来なら、資本家との階級闘争を通じて、成熟したプロレタリアートが革命に立ち上がるはずが、今だ期の熟さないうちに、レーニン率いるボルシェビキが、厭戦気分の兵士や都市住民を糾合して一気に「ブルジョア臨時政府」を倒したわけで、これは「革命」などではなくて「クーデター」にすぎなかった。
しかし実際には、自然発生的に「二月革命」が実現され、これがブルジョア革命だとされるが、その後の資本主義的発展をまたず、半年あまりで「十月革命」が起こった。
その後に成立した他地域での共産主義国家も、すべて封建制か植民地という資本制未発達の地域で達成されたもので、逆に、発達成熟した先進資本主義の地域で「プロレタリアート革命」の起こされた例は皆無である。これらの先進地域では、せいぜいが議会制を通じて改革を進める「社会民主主義」政党となる。
〇 ロシアの革命主体の変遷
*ナロードニキ
1860年から1870年にかけて、インテリゲンツィアによって「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を掲げた革命運動が拡がった。ツァーリズム支配を打倒し社会主義を実現するという、都市の知識人を中心とした「ナロードニキ」による運動は、ロシア独自のミール(農村共同体)を啓蒙し、社会主義を広めることで革命に結びつけようとした。
皇帝アレクサンドル2世によって「農奴解放」(1861年)は為されたが、富農・自作農(クラーク)と小作人との格差は厳然として残されたままであった。「バクーニン」のアナーキズムの思想の影響を受けた、ナロードニキのインテリ青年・学生たちは、両者の間に楔を打ち込み、貧農たちの中に入りこみ、社会革命思想を植え込もうとした。
しかし、ツァーリズムにどっぷり浸っていた農民たちは、徹底的に保守的であり、一向に動こうとしなかった。次第に絶望していったナロードニキは、ニヒリズムに陥り、一部はテロリズムに走ることになる。1881年には、ナロードニキの流れを汲むテロリストがアレクサンドル2世を暗殺した。
だがこの事件で、小作農がおじけづき遊離していったのと同時に、政府による徹底的な弾圧により、グループの組織は衰退し、活動は停滞した。しかし、ナロードニキの方針や活動は、後の「社会革命党(エスエル党)」などの革命志向の党に継承されていった。
組織されない「アナーキズム」は、現体制の打倒と破壊だけを目標とし、事後の体制ビジョンなどを持たないため、目標達成が行詰ると、ニヒリズムに陥り、無目的な急進テロリズムに走りやすい。かくして、自壊してゆく流れとなる。
*社会革命党(エスエル党)
*社会革命党(エスエル党)
アレクサンドル2世暗殺のあと、帝位をひき継いだアレクサンドル3世は、専制政治による帝国を目指し、保守的な政策を進めたが、1994年に崩御すると、ニコライ2世が帝位を継承した。ニコライ2世も父の路線を踏襲したが、時代の流れの中で弾圧政策は反発をまねき、1904年の日露戦争前後には、いくつもの革命政党が生れた。
その中に、のちにメンシェビキとボルシェビキに分裂する「社会民主労働党」などとともに、「社会革命党(エスエル党)」も含まれていた。社会革命党は、小農に基盤を置いた革命政党というだけで、その政策を一意的に把握するのは難しい。ナロードニキのアナーキズムを継承しただけに、現体制を崩壊させるだけで、具体的なビジョンは覗えない。
「二月革命」時には、全ロシア=ソヴィエト会議で、エスエルは最大多数の代議員を占めたが、右派の「ケレンスキー」が入閣するにとどまった。ケレンスキー主導の臨時政府となると、ボルシェビキとの対立が深まった。戦争遂行をとなえるケレンスキー臨時政府に対して、左派は即時停戦をとなえるボルシェビキとの連携を選んで分裂した。
結局は穏健派の右派は「メンシェビキ」と合体し、急進派の左派は「ボルシェビキ」と連携するなど、エスエルの特性は見られなくなった。「十月革命」でボルシェビキが政権を奪取すると、連携したエスエル左派は政権に参画し、憲法制定議会の議員選挙で第一党となった。
しかし「レーニン」は、憲法制定議会を解散させ、一党独裁を確立する。内戦の混乱もとで打ち出された「戦時共産主義」では、農村からの収奪は苛酷を窮め、農民に基盤を置いた社会革命党左派は、都市プロレタリアートを基盤にしたボルシェビキと徹底対立し、そこで袂を分かった。
結局、社会革命党エスエルは、テロ活動を担う「社会革命党戦闘団」を中核として、テロリズム集団としてのみ一貫性を維持したといえる。レーニンと袂を分かって左派の指導者となった女傑「マリア・スピリドーノワ」は、抵抗活動をするが鎮圧され、レーニン暗殺にまで手を染める。ボルシェビキの秘密警察チェーカーに徹底弾圧され、スピリドーノワは後のスターリンによる大粛清時に銃殺された。
一方、右派で臨時政府を率いたケレンスキーは、十月革命でボルシェビキに圧倒されるとフランスに亡命し、ナチスドイツがフランス侵攻を始めると、さらにアメリカに逃れた。1970年、88歳でニューヨークで死亡するまで、ロシア革命の生き証人として、ロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。
*メンシェビキ(社会民主労働党右派)
*メンシェビキ(社会民主労働党右派)
1898年に創立されたロシアで最初のマルクス主義政党「ロシア社会民主労働党」は、1903年の党大会で党規約の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは、党員の資格を「党の組織活動に参加すること」と主張したが、「マルトフ」は「党に対する支持」だけでよいとした。
レーニンは、『何をなすべきか』で「組織され訓練された職業的な革命家たち」による強力な結社を主張しており、緩やかな党紀で多数の大衆を取り込もうとするマルトフら右派との対立が拡大し、やがて中央機関紙の編集局の主導権を巡り分裂する。
結局編集局は、レーニンらが主導することになり、排除されたマルトフら古参革命家たちは「少数派」とされ、分裂した結果「メンシェビキ(少数派)」と呼ばれるようになり、レーニンらは「ボルシェビキ(多数派)」を名乗った。メンシェビキは、マルトフと、あとから加わったプレハーノフなどが中心になり、「プレハーノフ」は正統派マルクス主義の理論派として活動する。
メンシェビキは、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得しており、ドイツ社会民主党の「カール・カウツキー」や、ポーランド生まれのマルクス主義理論家で革命家「ローザ・ルクセンブルク」らからも支持された。
メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者に欠けていた。1905年のロシア第一革命では、メンシェヴィキは指導力を発揮できず傍観するに終わった。1917年の「二月革命」では、ペトログラード・ソビエトではメンシェビキが優勢であり、労働者多数派の支持を受けていた。
しかし革命が進行しても、組織のゆるさが災いして統一した政策を打ち出すことができなかった。社会革命党出身のケレンスキーが「臨時政府」を主導するようになっても、メンシェビキの立ち位置は曖昧なままだった。
そんな中、ボリシェビキが中心となり「十月革命」を起こし、臨時政府が倒されると、直後に開かれた会議で、ボルシェビキのトロツキーから「君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ」とこき下ろされ、メンシェビキの歴史上の役割の終焉を宣告された。
*ボルシェビキ(社会民主労働党左派)
ボルシェビキはメンシビキや社会革命党に比べ少数派だったが、人事と要職を握って「多数派」を名乗った。ボルシェビキが他と分かたれる一番の特長は、暴力革命を主張し、中央集権による組織統制を徹底した点であった。そのため指揮系統が統一されて、素早い革命行動が実行できた。
二月革命で成立した臨時政府は、社会革命党右派のケレンスキーが実権を握っていた。ドイツへの屈辱的講和に不満をもつ大衆に突き動かされて、ケレンスキー臨時政府は第一次世界大戦の継続を選択した。ケレンスキーはドイツへの反攻を試みるが失敗し、兵士らの厭戦気分や労働者大衆の飢餓や苦境で、政府への不満が爆発した。
ケレンスキー臨時政府は、ボルシェビキの弾圧を謀り、「レーニン」ら幹部は一時潜伏を余儀なくされたが、臨時政府の内紛などを契機に復帰し、「トロツキー」は兵士や労働者を鼓舞する演説で、蜂起のための組織を掌握していった。
1917年10月、ボリシェヴィキの中央委員会は「武装蜂起の機は熟した」とし、ペトログラード・ソビエトは「軍事革命委員会」を設置した。トロツキーは、武装蜂起の方針を承認させる演説をし、蜂起する期日も定めた。この時、メンシェヴィキは蜂起に反対し、この軍事革命委員会への参加を拒否して、革命の前線舞台から去ることになった。
これと前後して、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。やがてエストニアでの武装蜂起をきっかけに、ペトログラードでも軍事革命委員会が武力行動を開始し、さしたる抵抗もなく首都の主要施設を占拠、軍事革命委員会が全権掌握を宣言した。
この10月25日(旧暦)が十月革命の公式日付とされるが、まだ冬宮には政府閣僚らが残っており、翌日未明にかけて占拠が進められた。ほとんど抵抗もなく、閣僚らは逮捕、ケレンスキーは脱出して亡命した。一方で、レーニンを議長とする「人民委員会議」が、新しい政府として設立され、ボルシェビキは「ロシア共産党」に発展的に改組された。
その後、ソビエト連邦政府の下で、「十月革命」の様子は本格的な「革命戦争」として描かれるようになったが、実質的にはボルシェビキによる、政権奪取のクーデターに近かったと考えられる。
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