【21th Century Chronicle 2011(h23)年】
◎東日本大震災
*2011.3.11/ 「東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)が発生する。
2011(h23)年3月11日(金)14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」が発生した。地震規模はマグニチュード 9.0で、日本周辺における観測史上最大の地震となった。
震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500 km、東西約200 kmに及び、最大震度は宮城県栗原市で震度7、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。
この地震により、波高10m以上にもなる巨大な津波が発生、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害を発生させた。巨大津波以外にも、地震の揺れ・液状化現象・地盤沈下・ダムの決壊などで、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種インフラが寸断された。
震災による死者・行方不明者は1万8千人超、建築物の全半壊は合わせて40万4千戸以上、震災発生直後には避難者は約47万人、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上にわたり、今なお5万人以上の避難者がおり、避難の長期化が深刻となっている。
地震によって、観測史上最大級の非常に大規模な津波が発生し、北海道から千葉県にかけて、30分前後の時間差で大津波が押し寄せた。特に岩手県・宮城県・福島県の3県では、海岸沿いの集落が軒並み水没したのをはじめ、仙台平野などの平野部では海岸線から数kmの内陸にわたる広範囲が水没、遡上した津波により河川沿岸ではさらなる内陸まで水没した。
超大規模な地震であったが、震源が海であったため、被害はその後に襲った大津波によるものが圧倒的に大きかった。死者は津波による溺死が90%を占め、がれきによる圧死・損傷死や火災による焼死も、津波によって引き起こされたものが大半で、地震の揺れそのものが原因による犠牲者は、100人程度が確認されている。
さらには、地震から約1時間後に15mもの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1-5号機で非常用電源を喪失したため、原子炉の冷却水が供給できなくなると、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した。この福島原発事故は、大震災・大津波に加えて、東日本大震災の影響をより深刻なものとした。
広範囲の津波による被災で、かつて経験しない数の避難者を出した。しかも長期にわたる避難所や仮設住宅での生活は、不衛生や寒さなどが原因で高齢者を中心に体調を悪化させる人が相次ぎ、復興庁による「震災関連死」は4千人近くに迫っている。なかでも福島県の死者が半数以上占めているのは、原発事故の長期避難による「原発関連死」がかなりを占めるからと思われる。
もちろん大地震と大津波は、東北地方太平洋岸の建造物を含めたインフラにも、壊滅的な被害をもたらした。道路・鉄道は広範囲にわたり寸断され、航空交通でさえ仙台空港をはじめとして冠水などで使用不能となった。電気・ガス・水道などライフラインどころか、役所・学校など公共の建物や住居そのものが流され倒壊してしまった。
そして東北地方における産業被害はもとより、エレクトロニクスの基盤となる電子素子や半導体の製造業がこの地域に展開されており、いわゆるサプライチェーンの寸断により、日本全体の生産活動が大きな被害を受け、さらには世界各地のデジタル機器産業や自動車産業など、広範囲の産業が大きな影響をうけることとなった。
◎福島原発事故
*2011.4.4/ 福島第一原発で、事故による汚染水を海に放出する。
2011(h23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震発生当時、福島第一原子力発電所では、1〜3号機が運転中、4号機〜6号機は定期検査中だった。運転中の原子炉は地震で自動停止し、地震による停電で外部電源を失ったが、非常用ディーゼル発電機が起動した。
しかし地震の約50分後、15mもの大津波が発電所を襲い、非常用ディーゼル発電機を始め、電気設備など多数の設備が失われ、全電源喪失に陥った。このため、原子炉内部や核燃料プールへの注水が不可能となり、核燃料の冷却ができなくなった。核燃料は運転停止後も膨大な崩壊熱を発しており、原子炉内が空焚きにならないためには注水し続ける必要があった。
電源喪失により、原子炉冷却機能だけでなく、原子炉の各計器・発電所内の照明・通信機能も失ったことで、現場の状況把握自体が困難となった。1・2・3号機では刻々と状況が悪化し、詳細は事後的に判明したことだが、核燃料ペレットが原子炉圧力容器の底に熔け落ちる最悪の事態の「炉心溶融」が起きたとされる。
原発内部の詳細情報が分からないまま、テレビなどでは刻々と憶測情報などが報道されるなか、建屋各内部に水素ガスが充満し、1・3・4号機ではガス爆発で原子炉建屋が破壊される様子などが、監視カメラ映像で映し出された。
格納容器内の圧力を下げるための排気操作(ベント)や、水素爆発、格納容器の破損、配管の繋ぎ目からの蒸気漏れ、冷却水漏れなどにより、大気中・土壌・海洋・地下水へ、大量の放射性物質が放出された。政府は、福島第一原発から半径20km圏内を警戒区域、20km以遠の放射線量の高い地域を「計画的避難区域」として避難対象地域に指定し、10万人以上の住民が避難することになった。
福島第一原発の吉田昌郎所長は、11日15時42分頃、全交流電源喪失状態になったことから原子力災害対策特別措置法第10条に該当すると判断、東電本店を介して原子力安全・保安院等へ通報を行った。政府は19時03分、「原子力緊急事態宣言」を出して総理官邸に「原子力災害対策本部」を設置した。
12日未明、ベント作業実施の申し出に対して官邸は許可を出したが、現場の混乱でベントの開始が遅れると、12日7時すぎ、いらだった菅直人首相自身が、直接に福島第一原発の事故現場を訪れ、現場の対処を余計に遅らせる混乱を引き起こした。
また3月15日早朝、状況が緊迫するなかで、清水正孝東電社長から、事故現場からの作業員撤退の申し出があると、菅直人首相は東京電力本店に乗り込み、勝俣恒久会長以下約200人が出迎の元、菅首相は「撤退などあり得ない」と東電に迫った。事実上は、直接緊急対策作業に携わらない、一般作業員たちだけの退避申し出であったという。
事故の根本原因は、想定を大幅に超える未曽有の大津波が原発を襲ったことにあり、国際原子力機関(IAEA)の調査団も、高さ14 mを超える津波によって、「非常用電源を喪失したこと」であると結論し、「日本の原発は津波災害を過小評価していた」とコメントした。
福島原発事故によって、直接の放射能による死者は出ていないとされる。ただし、作業員の事故死や関連死は何人か発生している。さらに事故との直接の関連は示せないが、その後白血病や癌を発症して亡くなった人、さらには、避難生活によるストレスや環境の変化による持病の悪化など、震災の影響で死亡した人は「震災関連死」として認定され、1,000人以上が計上されている。
*2011.10.5/ アップル社元CEO スティーブ・ジョブズ(56)が死去する。
スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アップル社の共同設立者の一人であり、MacintoshからiPhoneまで、数々の独創的なPC関連デジタル製品を生み出したプロデューサーとして有名で、アップル社を世界のトップ企業に押し上げた実業家でもある。
アップル社の歴史は、1976年4月、ジョブズとウォズニアックらとで、「アップルコンピュータ・カンパニー」を創業した時に始まる。コンピュータ小売店から注文を得て、ジョブズの実家(伝説では”ガレージ”とされる)で50台の「Apple I」を組み立てて、2万5,000ドルを得たのが最初の実績であった。
1977年4月、基板・キーボード・電源装置が筐体に一体化された「Apple II」が発表され、テレビ等の外部ディスプレイを接続すればすぐにコンピュータとして使用できる画期的なApple II は大ヒットし、1980年12月に、アップルは新規株式公開を行った。1984年になるとジョブズは、画期的なGUIやマウスを持つコンピュータ「Macintosh(マッキントッシュ)」を発表、その革新性はマスコミから絶賛され、ジョブズの名声を高めた。
一方、1981年、IBMが開発した「IBM PC」は、ビル・ゲイツのマイクロソフト社開発のMS-DOSを搭載し、設計や仕様を開放したオープンアーキテクチャ路線を採用、「パーソナルコンピュータ」という言葉を一般化した。オープンアーキテクチャで、誰でも同じ仕様のパソコンを作れるようになり、パーツ類も規格化され共用化できるようになると、IBM PCがパソコンの標準仕様となって行った。
革新的な操作性をうたったMacintoshも、そのあおりを受けて販売不振に陥り、1985年9月、ジョブズはその責任を取る形でアップルを追われることになる。ジョブズがアップルを去っている1995年、永遠のライバル ビル・ゲイツのマイクロソフト社は、Macintoshの革新機能の多くを取り込んだOS「Windows95」を発売、Windowsを搭載した「IBM PC互換機(DOS/V機)」がパソコンのシェアを専有する状況となった。
1996年、深刻な業績不振に陥ったアップル社は、ジョブズを復帰させて命運を託す。ジョブズは復帰すると、不倶戴天のライバルであるビル・ゲイツのマイクロソフトとの提携(事実上は資金支援を受けた。MSは独禁法で分割解体されないため、アップル社に倒産してもらっては困ったわけ)を発表し、社内のリストラを進めて業績を回復させた。
1997年「Mac OS 8」を発表、それを搭載したノートパソコン「PowerBook」発売すると、ジョブズは1998年5月、Apple Worldwide Developers Conference(WWDC)において、あの独自のプレゼンテーションスタイルで「iMac」を発表した。トランスルーセント筐体(透明ボディでスケルトンなどと呼ばれた)を採用したiMacは、シンプルさと可愛さを同時に体現し、PC初心の若い女性層にも支持者を広げ、Appleの久しぶりの大ヒットパソコンとなった。
その後はジョブズの独壇場と言える世界を実現し、iPod・iPad・iPhoneなどを次々と発表すると、単なるパソコンからモバイルコンピューティングの世界へと、デジタル空間を一変させた。今の若者は、スマホがかつてのパソコンの発展形であるとは、思いもしないだろう。
ジョブズは、永遠のライバル ビル・ゲイツと何度も対談している。その間、両者の関係はシーソーのように上下する。1955年と同年生まれの両者は、対談ではジョブズが終始ビルを突っつきまくるという構図が展開される。2007年の最後の対談では、ジョブズがPC分野でビルに完敗したのを認めたようだ。デジタル界に詳しい誰かが言った、「デジタルコンピューティングの世界は、二人のヒッピーとオタクが作り上げたのさ」
http://teapipin.blog10.fc2.com/blog-entry-749.html
しかし実はこの年は、ジョブズがiPodを発表した時であり、この後、iPad・iPhoneなど画期的な製品を発売、モバイルコンピューティングの世界を席巻し、株価時価総額・総売上高・総利益という企業3大部門でマイクロソフトを抜き、企業ランク トップに躍り出るという偉業を達成する。2011年10月5日、アップルは、ジョブズが死去したと発表した。死因は胃癌、享年56。 ”Stay hungry. Stay foolish. Steve Jobs”
◎キム・ジョンイル(金正日)死去
*2011.12.19/ 北朝鮮 キム・ジョンイル(金正日)総書記が急死する。
金正日の父 金日成主席は、白頭山を根拠とするゲリラ(抗日パルチザン)の指導者として活躍しており、白頭山の密営で白頭山の女将軍である金正淑との間に、長男の金正日が生まれたされている。しかし実際には、日本軍に追われてソビエト連邦内に逃げ込み、ソ連極東旅団に編入され訓練・教育を受けている間の、1941年に生まれたことになる。
1960年金日成総合大学経済学部に入学、在学中の1961年7月、朝鮮労働党に入党。1964年に大学を卒業、党中央委員会に勤務し、1969年党組織指導部部長に就任、党宣伝扇動部副部長や文化芸術部部長を兼任する。1973年党中央委員会書記、1974年政治委員会委員に選出され、金日成の後継者として「推戴」された。
さらに順次、金正日への権力移行が行われ、1980年党中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとし、このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年には最高人民会議代議員に選出される。1994年7月8日、金日成主席が死去。金正日はこの日より事実上の最高指導者として統治を開始した。
2000年5月、就任後初外遊で中国を訪れ初めて国際社会に姿をあらわし、中国共産党総書記の江沢民との会談で南北首脳会談に向けた事前協議を行ったとされ、2000年6月、太陽政策を取る韓国の金大中大統領を平壌に迎えて南北首脳会談を行い、南北共同宣言を発表した。2000年の南北首脳会談以降、イタリア、イギリス、カナダ等西側諸国との国交を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始める。
翌2001年1月の中国を非公式訪問では、後継者候補と目されていた長男で改革派の金正男を同行、上海も視察しその経済発展を絶賛し、改革開放に意欲を見せた。しかし、同年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が、北朝鮮・イラン・イラクの3ヵ国を「テロ支援国家」で「悪の枢軸」と呼んで、北朝鮮敵視政策を始めると、金正日は「先軍政治」を掲げ、交渉決裂や武力衝突を辞さないという瀬戸際外交を展開した。
2002年9月、小泉純一郎首相が電撃的に北朝鮮を訪問、日朝首脳会談の席で金正日は日本人13人を拉致したことを認め謝罪を口にする。犯行は特殊機関の一部の盲動主義者らが勝手に行った行為だとし、その後の交渉で5人の拉致被害者を日本に帰国させるが、その他の拉致被害者の解放交渉は難航し、以後、日朝交渉は断絶状態にある。
金日成の生前から、金正日への政権移行を踏まえて、金日成とともに神格化が進められて来た。金正日は、国営の朝鮮中央放送で「百戦百勝の鋼鉄の霊将」などと賛美されるが、実際には実戦で指揮を執った経験はない。国民からは「将軍様(チャングンニム)」と呼ばれ、国内のあらゆる所にその肖像画が掛けられている。
一方で、金日成の後継とみなされたころから、金正日はさまざまなテロや陰謀工作を直接指揮してきたと考えられている。1970年代からの日本人拉致工作、1983年10月に全斗煥大統領を狙ったラングーン爆弾テロ事件、さらには1987年工作員の金賢姫を使った大韓航空機爆破事件など、多くのテロ活動を指揮したとされる。
また国内でも恐怖政治を展開し、1993年ソ連崩壊により北朝鮮クーデター陰謀事件が明らかになると、金正日は多くのソ連留学経験者を旧KGBのスパイとして粛清した。また、経済政策の失敗で苦難に陥ると、1997年から2000年にかけて、金正日は最高指導者の地位をより確立させるべく、義理の弟の張成沢を使って、建国以来の古参幹部やその側近・親族の大規模な粛清(深化組事件)を行うなど、冷酷な側面を示した。
1994年国際原子力機関(IAEA) からの脱退を宣言したころから、北朝鮮の核開発やミサイル発射実験を推進してきたのも金正日で、その路線は後継者の三男金正恩によって、ますます継承拡大されている。2008年8月脳卒中で倒れ、その健康問題が囁かれるなか、2011年12月17日、心筋梗塞のために死亡、享年70。
(この年の出来事)
*2011.2.22/ ニュージーランドで地震、日本人留学生28人が死亡する。
*2011.5.1/ 国際テロ組織アルカイダを率いるオサマ・ビン・ラディンの殺害が公表される。
*2011.11.27/ 大阪府知事を辞職した橋下徹が、大阪市長に当選し、松井府知事ともに、府市首長両方を大阪維新が独占する。
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