【20th Century Chronicle 1995(h7)年】
*1995.1.17/ 1月17日未明に、阪神・淡路大震災が発生する。
1995(h7)年1月17日未明の5時46分、兵庫県淡路島北部沖を震源として、マグニチュード7.3の地震が発生し、近畿圏の広域に甚大な被害をもたらした。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・長田区など)の被害は大きく、日本の近代的な100万都市を襲った大災害は、世界中に衝撃を与えた。
地震は「兵庫県南部地震」と名付けられたが、当地震によって引き起こされた災害(震災)全体を指す名称は「阪神・淡路大震災」と命名された。地震の震源は「六甲・淡路島断層帯」の一部「野島断層」付近で、都市部の直下で起こった活断層の活動によるものとされる。
この大地震では兵庫県南部を中心に大きな被害を出し、死者は発生当時戦後最多となる6,434人で、689,776棟の建物が被害を受け、被害総額は約10兆円に達した。これは、2011年の東日本大震災が起こるまでは、戦後最大の被害であった。
道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインが、広範囲において壊滅的損傷を受け、これ以降、都市型災害および地震対策で、根本的見直しが要請されるに至った。また、1981(s56)年には大幅な建築基準法の改正が行われたにもかかわらず、それ以降に建てられたビルなどでも倒壊が見られた。
戦前の関東大震災では、木造住宅が密集での火災が被害を大きくしたため、おもに焼死により約10万人の死者を出した。一方、当震災より後年に起こった東日本大震災では、津波による水死で1万5千人を超える戦後最悪の死者を出した。これらと比べ阪神・淡路大震災では、活断層の都市直下型地震であり相対的に被災地域は狭かったものの、家屋倒壊による圧死で6千人を超える死者を出した。
20代が30代よりも200人近く多く死者を出した点で、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している。20代が多かった理由は、大学が多い神戸市灘区や東灘区などで、文化住宅や木造アパートなどに住んでいた学生が多く、倒壊した家屋の下敷きになったケースが多かった。31大学111人が死亡し、特に、神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した。
実は当方も、その25年前に神戸市の灘区や東灘区に下宿した経験があり、自宅通学以外の同級生なども、安いボロアパートや木造の下宿屋に住まっていたので、これには頷けるところがある。地震から一ヵ月後ぐらいに、知人のジャーナリストの取材に同行して、JR線でかつて下宿していた摂津本山駅を通過したが、その駅前の下宿屋もペシャンコになっていた。
そのまま、被害の大きかった長田区まで行ったが、靴の下町工場などではいまだ合成皮革がくすぶり、焼け焦げた臭いがただよっていた。倒れた家屋の端では、折れた水道管からポタポタと水が流れ出ていた。倒壊した阪神高速道路の映像などが何度もテレビで放映されていたが、地震後一ヵ月後ほどに足を踏み入れた被災地の現状からは、それ以上の衝撃を受けた。
◎オウム真理教事件
*1995.2.28/ オウム真理教 公証役場事務長監禁致死事件。
*1995.3.20/ オウム真理教 地下鉄サリン事件 13人死亡 約6,300人被害。
*1995.3.22/ 警視庁などがオウム真理教の施設を強制捜査。
*1995.3.30/ 警察庁長官 自宅前で狙撃され大けが。
*1995.4.23/ オウム真理教の村井秀夫幹部 東京青山の総本部前で刺殺される。
*1995.5.5/ オウム真理教 新宿駅青酸ガス事件。
*1995.5.16/ オウム真理教 麻原彰晃 本名松本智津夫元死刑囚 逮捕。
*1995.5.16/ オウム真理教 東京都庁郵便物爆弾事件。
*1995.9.6/ オウム真理教 坂本弁護士と妻の遺体発見。
1995(h7)年3月20日午前8時ごろ、東京都内の営団地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、猛毒の神経ガス サリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、数千人が負傷する大事件が発生した。
3月20日は月曜日で、平日朝のラッシュアワーのピーク時を狙って犯行は行われた。現場の各地下鉄車両内は、突然、凄惨な修羅場と化し、地上では地下鉄駅構内から運び出された多数の被害者がもがき苦しんでいた。
それまでにも、 麻原彰晃を教祖とするオウム真理教はいくつもの凶悪事件を起こしていたが、決定的な証拠がなく強制捜査の決定には至らなかった。オウムの起こした事件の中でも、「坂本弁護士一家殺害事件(1989.11)」や「松本サリン事件(1994.6)」は、「地下鉄サリン事件(1995.3)」と並んでオウム3大事件とされる。
松本サリン事件直後には、オウムの犯行という噂がながれ、1995(h7)年1月には上九一色村のオウムのサティアン周辺でサリン残留物が検出されたと報道され、オウムへのサリン疑惑が表面化する。強制捜査の危機を感じていたオウムだが、1月17日に突然阪神淡路大震災が起こったため、麻原は強制捜査が立ち消えたと考え、2月28日、東京都内で「公証人役場事務長監禁致死事件」を起こす。
この事件で教団信者松本剛の指紋が発見され、ようやく警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決定した。しかし教団はそれを察し、警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日に地下鉄サリン事件を決行した。
事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(富士河口湖町)を中心に教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備といったテロのための設備などが発見され、オウム真理教の異様な実態が明らかになった。
以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕されていくなか、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、一方でNo2の村井秀夫は捜査撹乱を意図し、逃走した幹部の井上嘉浩、中川智正らのグループに命じて「新宿駅青酸ガス事件」「都庁爆弾事件」などを起こさせた。その村井秀夫自身は、東京南青山総本部前で、報道陣のカメラが撮影するなかで刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。
教団の幹部クラスが次々と逮捕され、その中のサリン散布実行犯で、医師資格を持つ幹部 林郁夫が自供を始め、それをきっかけに、1995(h7)年5月16日に再度、上九一色村の教団施設の捜索が開始された。そして第6サティアン内の隠し部屋で、多額の逃走資金と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(40)が、事件の首謀者として逮捕された。
その後も、教団幹部や事件関係被疑者の逮捕が続き、地下鉄サリン事件以降484人の信者が逮捕され、1998年までに189人が起訴された。裁判で麻原は、意味不明のことをつぶやいたり、やがて意思疎通不可能と判断される状態となり、何一つ具体的な証言をしなかった。
異例づくめの長期裁判となったオウム関連裁判は、やっとのことで2011(h23)年12月に終結し、13人への死刑判決・5人への無期懲役判決が確定した。2012年6月、特別指名手配されていた最後の逃亡犯高橋克也が逮捕され、確定死刑囚の死刑執行の環境が整い、2018(h30)年7月に、事件に関与した麻原をはじめとする死刑囚たちの死刑が執行された。
*1995.11.23/ マイクロソフト「ウインドウズ95」日本語版が発売される。
1995(h7)年11月23日午前0時、秋葉原では日付の変わる深夜に発売を開始し、パソコンファンが殺到、さらに業界関係者や報道陣も加わり、パソコンソフトウェアの発売としてはまれな大騒ぎが展開され、発売4日で400万本を売ったと言われる。
それまで一部のマニアだけが使いこなせたパソコンやインターネットが、Windows95によって、一挙に一般人の手の届くところに近づけられたという意味では、まさしく画期的な製品であったと言える。
では、Windows95の一体どこが革新的だったのか? とにかく羅列すると、GUIの刷新によるカラフルな画面、LAN・WANなどのネットワーク機能の充実、Win32APIによる高速な32ビットコードによるプログラム処理、32ビットI/O機能による高速なファイル処理、ファイルシステムFATの拡張により長大ファイル名が利用可能、プラグアンドプレイによる周辺機器増設の容易化、などとなる。
このように書かれても分かりづらいだろうが、つまるところ、そんなことを気に掛けなくても、リアルでカラフルなディスプレーを眺めて、マウスとキーボードでちゃちゃっと操れるイメージになったわけである。そして、誰もが簡単にインターネットを活用できる環境が整った。
コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスで選択するという仕組みは、総称してGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる。
Windows95では、それらのアイテムをディスクトップ(起動時初期画面)上に展開するGUIを売り物として、それまでのMS-DOSの世界を一新したが、実はこのようなGUIを本格装備したのは、ジョブズのアップル社が1984年1月に発売した”Macintosh”だった。
しかし、一般向けPCとしては高額であり、対応ソフトの不足などでMacintoshの販売は停滞し、創業者で開発リーダーであったスティーブ・ジョブズが会社を去ることになるなどして、アップルは長い業績低迷期をむかえる。
その間に、ビル・ゲイツのマイクロソフト社はWindows95を大々的に発売し、Windowsを搭載しさえすれば、パソコン機種に関わらず同じ動作が保証される特性を発揮し、パソコンのOSを独占する勢いとなった。
アップル社は身売り話が出るほど低迷したが、97年にジョブズが復帰すると、ビル・ゲイツとの歴史的和解を演出し、MSとAppleがクロスライセンスを結んだ。まもなく可愛らしいスケルトンボディのiMacをヒットさせひと息つくと、iPod・iPhone・iPadを次々と開発し、モバイル・コンピューティングに市場を移行させるのに成功した。
Windous95は、その後”98”・”Me”とアップグレードし、プロ仕様の"NT"・”2000”と平行展開していたが、その後はNT系をベースに統合して”XP”・”Vista”・”7”・”8”・”10”と進めてきた。しかし近年のAppleやGoogleの攻勢に対応できず、立ち遅れ感は否めない。
NHK-BSドキュメンタリーで「スティーブ・ジョブズvsビル・ゲイツ」が放映された。年月を経て温和に語り合う二人だが、終始、スティーブがビルをいじるというような対談の様子が、二人の関係を象徴していた。二人の関係者らへのインタビューで、その中の一人が次のように答えていた。
「ヒッピーとオタクが いまの IT の世界をつくったのさ」
(この年の出来事)
*1995.4.9/h7 東京都知事に青島幸男氏・大阪府知事に横山ノック氏当選
*1995.7.30/h7 八王子スーパー強盗殺人事件
*1995.8.15/h7 戦後50年 村山談話発表
*1995.12.14/h7 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 和平協定調印式(パリ)
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