【20th Century Chronicle 1994(h6)年】
*1994.4.7/ ルワンダ内戦で集団大虐殺が発生する。
1994年4月、アフリカの内陸国であるルワンダで、ジェノサイド(集団大虐殺)が発生した。ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた旅客機が、ルワンダの首都キガリに着陸する際に、何者かによるミサイル攻撃で撃墜された。
この暗殺事件をきっかけに、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派により、多数のツチ系とフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかでないが、およそ50万人から100万人、ルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。
虐殺を受けて、ツチ系のルワンダ愛国戦線(RPF)が反攻を開始し、虐殺開始から100日後の7月18日にRPFが全土を完全制圧、カガメ司令官が戦争終結宣言を行った。この結果、今度はフツ系の大量の難民が周辺国に流出した。
ルワンダ虐殺の原因はフツ族とツチ族の民族間対立と言われるが、元来はほぼ同一民族だとされている。かつては、牧畜民のツチが農耕民のフツを支配するルワンダ王国が存在していたとされ、19世紀末にこの地域(ルワンダ=ウルンディ)はドイツ帝国領となったが、第1次世界大戦でドイツが敗れ、1919年、ルワンダ=ウルンディとして国際連盟委任統治領、第2次世界大戦後には国連のベルギー信託統治領となる。
ベルギー植民地下では、少数派であるツチを支配層とする間接支配体制が築かれた。フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族のフツと遊牧民族のツチとして区別されたにすぎないというが、ベルギーは少数派のツチを支配層に据え、フツとの分断支配をすすめた。
国王と多くの首長をツチに独占させたほか、教育や行政面でもツチが優遇され、IDカード制を導入するなど、ツチとフツの民族を人工的に分断し、ルワンダ虐殺の要因となる2つの民族が固定された。
1959年、ルワンダ王国のムタラ・ルダヒグワ国王の死を契機に、ルワンダ革命がはじまると、ツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギーは社会革命としてフツによる体制転覆を支援した(フツ・パワー)。ベルギー当局は多数派のフツ側に立場を逆転させて、翌1962年にフツのグレゴワール・カイバンダが初代大統領に就任し、ルワンダ共和国として独立する。ツチは報復を恐れてウガンダなどに脱出した。
1973年にルワンダ・クーデターが起こり、フツのジュベナール・ハビャリマナが第2代大統領に就任し、ハビャリマナは開発独裁を行う一方、ツチに対しては和解政策を進めた。しかし1987年、隣国のウガンダに逃れていたツチ系の難民が主体となり、ルワンダ愛国戦線(RPF)が結成された。
1990年以降、ルワンダ帰還を目指したRPFとルワンダ政府の間で内戦(ルワンダ紛争)がはじまり、ハビャリマナは反ツチの政策に転換する。そして1994年4月にハビャリマナの暗殺事件を発端に、フツ過激派が主体となり、ツチと穏健派フツに対するジェノサイドが勃発した(ルワンダ虐殺)。
ルワンダ虐殺は、きわめて組織立った形で行われた。ルワンダ国内では民兵の組織化が行われ、それら民兵が一般人民にも虐殺に加わるように強いた。さらに新聞や雑誌など活字メディアやラジオなどが、殺戮を煽る情報を一方的に流しした。
ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたとされ、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。
*1994.6.30/ 自社さ連立政権が成立し、社会党村山富市委員長が内閣総理大臣となる。
1993(h5)年8月、38年ぶりに誕生した非自民の細川連立政権が、たった9ヵ月で崩壊したあと、1994(h6)年4月、自由民主党・日本共産党を除く与党7党1会派(日本社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合)と、自民党を離党して結成された3党(自由党・改革の会・新党みらい)が協力し、新生党党首の羽田孜を国会で首班指名した。
主導したのは新生党代表幹事小沢一郎、公明党書記長市川雄一、民社党書記長米沢隆の「ワン・ワン・ライス」と呼ばれたラインで、これに反発する新党さきがけなど一部は閣外協力となった。さらに首班指名直後、社会党の影響力をそぐため新生・日本新・民社など5党が統一して衆院会派「改新」を結成すると、これに反発した社会党が連立政権からの離脱を表明、こうして羽田内閣は少数与党内閣として発足することになった。
発足当初から混乱した羽田内閣は、平成6年度の5月になっても予算審議にも入れず、その平成6年度予算案が成立したのは6月23日のことだった。予期されていた通り、自民党はその日のうちに羽田内閣不信任決議案を提出し、自民党と社会党の賛成多数で可決されることが必至となった。羽田は解散によるさらなる政治空白を憂慮して、わずか2ヵ月で内閣総辞職して退任する。
1994年(h6)6月、羽田内閣が総辞職した後、政権復帰を目指す自由民主党(河野洋平総裁)は、日本社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ(武村正義代表)と連立政権を組むことに合意した(自社さ連立政権)。そしてなりふり構わず、かつての仇敵社会党の村山富市委員長を、内閣総理大臣におしたてて村山内閣を成立させた。
このときの内閣総理大臣指名選挙では、中曽根康弘・渡辺美智雄らの一部議員を除く自由民主党議員の大半と日本社会党・新党さきがけの全議員が村山に投票、新生党・公明党など羽田内閣の与党側が推した海部俊樹を破った。この「自社さ」の枠組は、第2次橋本改造内閣が終了する1998(h10)年半ばまで引き継がれる。
長年対立関係にあった衆議院第1党自民党と衆議院第2党の社会党が連立を組み、数の上では大連立として成立した政権だが、1993年の総選挙で過半数を割った自民党と、歴史的大敗に至った社会党が、敗者同士で手を結んだ野合連合でしかなかった。
この連合の背景には、公明党との連携をもとに強引に政権を仕切る小沢一郎の政治手法への反発があり、政策に関係なく主導権争いでのみ合従連衡を繰り返す既存政党に、有権者は愛想を尽かし政治不信が加速した。その結果、無党派の支持を受けて東京都知事に青島幸男が、大阪府知事に横山ノックが当選し、1995年7月の第17回参議院議員通常選挙では投票率50%を大きく下回る過去最低を記録した。
自社さ政権である村山政権が発足したが、村山首相は就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の社会党路線の180度の変更を一方的に宣言した。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えず、凋落一方となる。
きわめて脆弱な村山政権の下で、日本社会を震撼させるような大事件が連続した。1995(h7)年1月17日の未明、阪神・淡路大震災が発生し、政府の対応が遅れたことで強い非難を浴び、内閣支持率の急落に繋がった。そして同年3月20日には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。
オウム真理教はすでに、1989年11月4日の坂本堤弁護士一家殺害事件や、1994年6月27日の松本サリン事件といった凶悪事件を実行していたが、地下鉄サリン事件で初めてオウムへの強制捜査が行われることになった。捜査の遅れの批判は、ときの村山政権が矢おもてに立たされた。
1995(h7)年7月に参議院議員通常選挙が行われ、日本社会党は大きく議席数を減らしたため、村山は辞意を漏らしたが慰留される。しかし1996(h8)年1月5日、村山首相は突然退陣を表明した。村山の退陣については様々な憶測があるが、政権内の内紛、社会党内の対立分裂、待ち受ける政治的難局など取り巻く状況に、政権を維持する意欲と自信を喪失したものと思われる。
後継には、引き続き自社さ政権の枠組みで、自民党総裁橋本龍太郎が首班に指名され、橋本連立内閣が発足した。社会党は社会民主党に党名を改め、反対派が大量離脱するなど、かつての野党第一党の面影は消えていった。
*1994.9.4/ 関西国際空港が開港する。
1960年代に、ダグラス DC-8やボーイング707など大型かつ騒音の大きいジェット旅客機の就航が相次ぎ、海外旅行の自由化などで航空需要の拡大が想定さるなか、制約が大きい既存の大阪国際空港のみでは対処できなということで、「関西第二空港」の建設が必要とされた。
「関西第二空港」は、大阪南港沖・神戸沖・明石沖・淡路島・泉州沖などの候補地から、泉州沖が建設地に選定され、1987(s62)年、人工島を造成して旅客ターミナルビル1棟や滑走路1本などを建設する第1期工事が着工された。
空港島の建設地が、騒音対策のため沿岸から5km離れた水深の大きな海の埋め立てとなったことで、関西国際空港の建設費は、国際的にも異例の金額となった。さらに地元漁師などへの「漁業既得権」への補償額が、当初想定を大幅に上回った。これらの建設費用の高騰の結果、世界的に高額な着陸料や賃料などが設定され、国際ハブ空港としての競争力を失うことになった。
空港1期島造成工事は1991(h3)年に完了、1994(h6)年9月4日に開港した。しかし旅客数・発着回数などの業績は、開港当初の予想を下回った。国際線利用者数は毎年増加を続けたが、大阪国際空港と競合する国内線の利用者数は伸びず、2004(h16)年度には開港当初の約半分まで落ち込んだ。
既存の大阪国際空港は豊中市・伊丹市など市街地の中央に位置し、過密な航空機離着陸の騒音対策などが課題であったため、政府は大阪国際空港への発着規制を強め、関西国際空港へのシフトを推進し、さらに不満の強かった高額な着陸料を値下げするなど増便を図った。
その後の航空需要の拡大などの追い風もあり利用客の増加が進み、利用客累計2億人の大台突破は約11年強で達成、約14年半かかった成田国際空港より大幅に早かった。しかし関西空港は成田空港より20年近くあとの開港で、国際化の進展・海外旅行に有利な円高・格安航空会社の登場・さらに中国や韓国の経済発展が関西国際空港に有利に働くなど、同等な比較はできない。
関西新空港の建設計画から現実に開港するまでに、航空需要と環境は大きく変化した。そもそもは大阪国際空港が手狭となり、その拡張が困難であり、航空騒音が問題となるにしたがって、その代替空港が必要となって来た。
運輸省(現国土交通省)は泉州沖に関西国際空港の建設案を推進したが、大阪国際空港の公害対策としての地元の合意では、関西新空港の開港にともない大阪国際空港が廃止されるかのような印象を与えるような内容となり、これが開港後も論議を呼ぶところとなった。
しかし1980年代に入ると、大阪国際空港周辺での騒音対策の進展や、その利便性や経済的利益などが再評価され、関西空港開港後も存続することが決定された。さらに、いったんは市民の反対などで建設計画を見送った神戸空港が、その後の状況変化から建設計画が復活し、2006(h18)年には神戸空港が開港するなどして、関西三空港の運用問題が大きな課題となって来た。
その後、関西三空港運用の議論が進み、2012(h24)年には新関西国際空港株式会社が設立され、関西国際空港と大阪国際空港の経営統合が実施された。さらに完全民営化するために関西エアポート株式会社が設立され、所有と運営の分離が行われ、新会社が関西国際空港と大阪国際空港の運営を一体的に行うことになり、現在では神戸空港を含めて関西三空港は関西エアポートグループによる一体運営体制となっている。
(この年の出来事)
*1994.2.12/ ノルウェー リレハンメル冬季オリンピックが開幕する。
*1994.4.26/ 名古屋空港で、中華航空機が墜落し264人が死亡する。
*1994.6.27/ 松本サリン事件で8人が死亡140人以上が被害に遭う。
*1994.7.8/ 北朝鮮 キム・イルソン(金日成)主席が死去する。
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