2020年12月17日木曜日

【20C_s5 1974(s49)年】

【20th Century Chronicle 1974(s49)年】


◎小野田寛郎元陸軍少尉 30年ぶり帰還

*1974.3.12/ 小野田寛郎元陸軍少尉がルバング島から帰還する。


 フィリピンのルバング島で、小野田寛郎元陸軍少尉(51)が発見され、30年ぶりに帰還した。小野田らは、敗戦後も「残置諜者」として敵方の後方霍乱と諜報活動を続けた。発見後も、かつての上官の「任務解除命令」を要請し、その後「投降」し「軍刀返還」するというように、あくまで日本軍人士官として振る舞った。

 帰国すると、圧倒的な賞賛で迎えられた。2年前の横井庄一さんと違って、日本軍下士官として30年間も軍務に服し続けたその意志力に、戦後の日本人たちは驚嘆した。しかし30年間に及ぶ「戦闘行為」中に、フィリピン軍人・警察官・民間人・在比アメリカ軍兵士など30名以上を殺傷しており、「平時の民間人殺傷」は犯罪に問われる可能性があった。しかし当時のフィリピン大統領マルコスは恩赦を発令し罪を問わなかった。


 終戦を信じなかったとはいえ、その後の日本側捜索隊の残したチラシなども読み、現地で手に入れたトランジスタラジオを改造して短波放送も受信していたという。短波で中央競馬実況中継を聞き、最後まで行動を共にしていた小塚上等兵と賭けをするのが楽しみだったらしい。小野田少尉の知力からしても、かなりの精度で戦後日本の繁栄を把握していたと思われる。

 いずれにせよ、30年間熱帯のジャングルで、孤独な中で「任務」を遂行しつつ生き延びた、その体力・知力・意志力は驚嘆すべきものであり、戦後の安穏とした社会で生きる日本人の生き方に一石を投じたことは間違いない。しかし小野田の意志力は、逆に戦後日本の社会になじむのを拒み、やがてブラジルに移住することになる。


◎日本初のコンビニ「セブンイレブン」開店

*1974.5.15/ イトーヨーカ堂が、初のコンビニエンスストア「セブンイレブン」を開店する。


 この時、日本最初のコンビニエンスストアが、江東区豊洲にセブンイレブン1号店として誕生した。1号店だからと言って特別なことはなく、フランチャイジーとして最初に応募のあったのが豊洲の酒屋さんだったというだけのことらしい。

 これはいかにもコンビニエンスストアらしい話しだ。金太郎飴のようにどの店に入っても、同じような場所に同じ商品が置いてあり同じサービスが受けられる。フランチャイズ・チェーンの典型がコンビニチェーンだと思われる。しかし長年、セブンイレブン・ローソン・ファミリーマートの違いがよく分らなかった。しかし中高生だった子供たちに尋ねると、明らかに違うという。


 最近になってコンビニをよく利用するようになって、やっとその違いが分るようになって来た。PB商品の開発力やなんやかやと言われるが、これだと明示できるものがない。しかし何となく同じチェーンに行くことになる。そのなかで、やはり総合的にトップを走り続けているのがセブンイレブンである。図表2を見ていただきたい、コンビニ展開にはこれだけの気の遠くなるようなチェック項目があるのだ。


◎ウォーターゲート事件 ニクソン米大統領辞任

*1974.8.8/ ウォーターゲート事件で、ニクソン米大統領が辞任を発表。9日、フォード副大統領が第38代大統領に就任する。


 1972年に発覚した「ウォーターゲート事件」は、その後驚くべき展開をみせる。セックス・スキャンダルなどものともしないアメリカ政界も、盗聴・侵入・もみ消し・司法妨害・証拠隠滅など、ありとあらゆる権力側の裏工作が露顕し、最高権力者 ニクソン大統領までもが深く関わっている事実と証拠が表面化した。

 具体的には、ワシントンのウォーターゲートビルの民主党本部への侵入事件が発端だが、ニクソン大統領が薄汚い言葉で、もみ消し工作などを直接指示するテープが提出されると、大統領への信頼は地に落ちて辞任するしかなくなった。


 そもそもこの時のニクソンは、ベトナム戦争の収拾、ドル防衛策の発表、中国との電撃的国交締結など、迅速な行動で圧倒的な人気を誇っており、選挙戦でも民主党などものともしない状況だった。たいした情報もない民主党本部に、えざわざ工作員を侵入させる必要などまったく無かったわけである。

 そこにはCIAとFBIの主導権争いなど、さまざまな流れがあり、本来の目的もまったく別のところにあったとの情報もある。ニクソン辞任の後、副大統領のフォードが就任したが、もはや政権運営できる背景は無くなってしまった。いわゆる「強いアメリカ」の復活は、ロナルド・レーガンの登場を待つしかなかった。


◎三菱重工本社ビル爆破事件

*1974.8.30/ 東京丸の内の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発、8人が死亡する。


 1974(s49)年8月30日午後1時前、東京丸の内の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発し大惨事となった。この爆発の衝撃で1階部分が破壊され、玄関ロビーは大破、建物内にいた社員が殺傷された。さらに表通りには、爆発の衝撃で破壊されたビルの窓ガラスの破片が降り注ぎ、多数の通行人が巻き込まれ死傷した。

 この爆発の爆風と飛び散ったガラス片などにより、三菱重工とは無関係な通行人を含む死者8人、負傷者376人を数える戦後最悪の爆弾テロ事件となった。爆発物は1階フロア脇に仕掛けられ、その場所には直系30cmの穴が開くほど強力なもので、自衛隊によると、敵軍を食い止めるため道路を破壊する20ポンド爆弾より強力なものだとされた。


 爆発の少し前に、三菱重工ビルの電話交換手に、三菱重工に時限式爆弾を仕掛けたとの予告電話が掛かってきた。最初は悪戯だと思いすぐに切ってしまい、再度かかってきて話を聞いた電話交換手は、半信半疑のまま上司に連絡に立った時に、すぐ爆発が起こり、社内に避難処置がなされる前だったのが、被害を大きくした理由でもあった。

 1974(s49)年9月23日付けで、「東アジア反日武装戦線“狼”」という名前で犯行声明が出された。予告電話がぎりぎりで、しかも爆弾の威力が過大だったため、予想以上の死傷者を出したためか、犯人グループ内で意見が分かれ、犯行声明を書き換えたりしていて、かなり遅くなってしまったようである。


 犯行声明では、三菱は戦前から戦後の今まで、一貫して日帝(日本帝国主義)の中枢として機能しており、その三菱を筆頭とする日帝の侵略企業に攻撃を加えるためのダイヤモンド作戦(三菱爆破作戦)であると宣言した。そして、三菱と無関係な犠牲者も、日帝に寄生する植民主義者であると、無理やりにこじつけている。

 その後も、1974(s49)年8月から1975(s50)年5月にかけて、東アジア反日帝武装戦線は、アジア侵略に加担しているとされた企業に対し断続的に爆破事件を起こした。これらの実行声明には、「狼」以外に「大地の牙」「さそり」といった名前が書かれ、三つの実行班を作って分担していたもようだ。


 特別捜査本部は、当初からアナキズム思想の「極左暴力集団」による犯行とみていたが、アイヌ人解放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似しているとして、新左翼評論家として活動する太田竜を、別件容疑で拘束したが、太田が直接かかわってることがないと判明し、それに近い思想的人脈の人物を監視し続けていた。

 その過程で、反日武装戦線メンバーの斎藤和・佐々木規夫が浮上、それから芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。1975(s50)年5月19日、主要メンバー7名(大道寺将司・大道寺あや子・佐々木規夫・片岡(益永)利明・斎藤和・浴田由紀子・黒川芳正)が逮捕され、一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となった。


 裁判ではリーダー格の大道寺将司と片岡利明が死刑確定、佐々木規夫・大道寺あや子・浴田由紀子はその後の赤軍派ハイジャック事件での解放要求で海外に逃亡、浴田はその後逮捕されたが、佐々木・大道寺あや子は逃亡中のまま国際指名手配中。斎藤は逮捕時に服毒自殺した。

 東アジア反日武装戦線は、他の過激派セクトと一線を画し、デモなど表立った活動はせず、ひたすら爆弾テロに徹し、「狼・大地の牙・さそり」など不気味な言葉を使い、「腹腹時計」という爆弾製造マニュアルの小冊子を出すなど、姿の見えない活動が恐怖を呼んだ。思想的にもアナーキスト系とされ、共産主義革命を目指す過激セクト新左翼とは異質だった。


◎田中角栄金脈問題で田中首相が辞任

*1974.10.10/ 立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」を掲載した「文芸春秋」11月号が発売される。

*1974.11.26/ 金脈問題を追及されていた田中首相が、辞意を表明する。


 立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」が文芸春秋に掲載され、田中ファミリー企業群などによる土地転がしなどによる金脈疑惑が報じられた。当初、完全無視を通していたが、やがて欧米メディアでも報じられると、プレスクラブで外国人記者会見に応じた。

 海外に潔白を示すという思惑ははずれ、外国人記者たちの追及にあくせくする様子などが報じられると、一気に国内で政治問題化し、11月には退陣表明、12月には内閣総辞職と、たった2ヵ月足らずのうちに総理の座から引きずり下ろされることになった。


 フリージャーナリストであった立花隆の緻密な調査報道は、政権トップでさえもみ消し出来ない正確さを備えていた。近年のマスメディアはほとんどこのような調査報道がなく、政治家のリップサービスや政府広報の受け流しに堕している。

 田中角栄は首相辞任後も、その人脈と金脈を維持し、政界の黒幕として支配力を発揮しつづけ「目白の闇将軍」と呼ばれた。その2年後、アメリカ議会で「ロッキード事件」が告発され、角栄内閣崩壊前後からすでに、金銭授受に深く関わっていたことが徐々に明らかになった。やがてその後の公判で実刑判決を受け(1983/s58)、さらに控訴中に脳梗塞で倒れる(1985/s60)など、さしもの田中角栄も政治的命脈を絶たれた。


(この年の出来事)

*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。

*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。

*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。


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