2020年12月20日日曜日

【20C_s5 1975(s50)年】

【20th Century Chronicle 1975(s50)年】


◎アングラ劇団天井桟敷 市街劇「ノック」

*1975.4.19/ 寺山修司主催の劇団「天井桟敷」が、杉並区で30時間連続の市街劇「ノック」を上演、警官が出動する騒ぎとなる。


 「多芸の鬼才」「サブ・カルチャーの旗手」などの異名をとった寺山修司は、「書を捨てよ、街へ出よう」などの著作で、若者たちが家・学校・会社などからドロップアウトして街中で自己表現することを煽動した。またアングラ劇団「天井桟敷」を主催、その募集広告が「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」だったり、唐十郎主催のライバル劇団「状況劇場」との劇団員同士の乱闘騒ぎを起したりと、話題には事欠かなかった。


 アングラ劇は大道芸などと関連が深く、観客席に乱入したり、観衆を劇中に巻き込んだりと、観客と一体化した演劇を目指していた。その延長線上に市中劇・市街劇が構想された。当然ながら、警察当局の許可など得られるはずもなく、ゲリラ的な上演となった。もし偶然、このような市街劇の場面に紛れ込んだら、人はどんな振る舞いをするのか、なども興味深い。


*市街劇「ノック」 https://mrs.living.jp/musashino/town_news/reporter/1614871

*同(動画) https://www.youtube.com/watch?v=WmsW51ew-ao


◎サイゴン陥落

*1975.4.30/ 解放勢力軍がサイゴンに無血入城する。(ベトナム戦争終結)


 1973年1月に「パリ和平協定」が結ばれたが、これはアメリカ軍の「名誉ある撤退」のための一時停戦に過ぎず、ニクソンの後をついだフォード政権は南ベトナムを防御する何の方策ももち得なかった。南ベトナムは、いわば関ヶ原の合戦後の大阪城のようなもので、最終決着のタイミングを待つばかりであった。


 北ベトナム軍および南ベトナム解放勢力は、一気に南の首都サイゴン(現ホーチミン市)に迫り、ほとんど抵抗もなくサイゴンは陥落した。ここにおいてベトナム戦争は、北ベトナムの南解放という形で統一され、完全終結した。


 写真は、解放勢力のサイゴン入城を歓迎するサイゴン市民の様子と、一方、最後の米軍の救出ヘリコプターにわれ先と乗り込もうとする人々。歓迎する人々の心中も様々であろうし、逃げようとする市民たちは、米軍・南ベトナム関係の仕事をしてたり、南政府支持をするなど、残れば殺されるような人とその家族たちであったと思われる。この二枚の写真の中にも、当時の南ベトナム住人たちの複雑な状況がうかがえる。


 このジョン・レノンの手になる曲は、ジョンとヨーコそれぞれの子供たちのためのクリスマスを祝うために作られた。"War Is Over" と歌われているが、実際にはベトナム戦争の泥沼化の最中の1971年に発表されている。ベトナム戦争が念頭にあるのは間違いないが、ジョンやヨーコが、世界中の娘・息子たちの世代が戦争のない平和な社会を生きられるようにと願ったもので、普遍的な平和ソングとして残るものであろう。

”John Lennon - Happy Xmas (War Is Over)” https://www.youtube.com/watch?v=flA5ndOyZbI


◎内ゲバ 過激化

*1975.7.17/ 新橋駅で中核・革マル両派が乱闘、321人が逮捕され、1人が死亡する。(内ゲバによるこの年の死者は19人) 


 浅間山荘事件で一連の連合赤軍事件が一応の終結をみたあと、民心は過激派集団から完全に離れた。しかしその後も、各派閥セクト間での「内ゲバ」事件は頻発した。これは暴力闘争の過激化の結果、幹部が地下に潜り、相互にその首を取りあうという、暴力団間と同じような構図になった結果である。


 この7月17日には、皇太子ご夫妻の沖縄訪問に反対して集まった革マル派と中核派の約800名が、国鉄新橋駅周辺で激突した。新橋駅山手線ホームでは、投石や破壊行為を行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で革マル派の学生が死亡する。内ゲバの中でも革マル派と中核派の確執は激しく、お互いの幹部クラスを殺しあうというこのような死闘を演じていた。


 この3月には中核派書記長、最高幹部で思想的指導者でもあった本多延嘉(41)が、川口市のアジトを革マル派に襲撃され鉄パイプなどで撲殺された。革マル派に対する無差別報復を宣言した中核派は、この年だけで15人の革マル活動家を殺害するなど、お互いの内ゲバはこの年ピークに達した。



◎クアラルンプール事件で過激派5人を釈放

*1975.8.4/ 日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールにある米・スウェーデン両大使館を占拠、赤軍派など7人の釈放を日本大使館に要求する。5日、政府は超法規的措置として出獄を承知した5人を釈放する。


 1975(s50)年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら52人を人質に取った。犯行に及んだ武装赤軍派は、人質と交換で、拘束されている赤軍派メンバー等の釈放を要求した。当時の三木内閣は「超法規的措置」として、参加意思がある5名を釈放した。


 釈放要求は7人だったが、坂口弘と松浦順一は拒否したため、坂東国男、佐々木規夫ら5人が釈放され海外に逃亡した。この事件で仲間の奪回に成功した赤軍派は、さらに1977年のダッカ日航機ハイジャック事件などをひき起こす。クアラルンプール事件犯行グループの一員だった奥平純三は、後に逮捕されるも、'77年のダッカ事件での人質との交換で釈放され、釈放後さらに海外で何度もテロ事件をひき起こし、現在も国際手配中となっている。


 このような日本政府の弱腰は、かえってテロリストのターゲットにされ易く、批判の対象ともなった。釈放された5人のうち2人は後に逮捕されたが、坂東国男・佐々木規夫・松田久は、実行犯の奥平純三とともに国際手配されている。


(この年の出来事)

*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。

*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。

*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。

*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。


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