【20th Century Chronicle 1986(s61)年】
*1986.2.24/ マルコス大統領の退陣を要求し、コラソン・アキノ女史が臨時政府を樹立する。(エドゥサ革命・ピープルパワー革命)
1965年より独裁体制を築いてきたフェルディナンド・マルコス大統領は、アメリカ合衆国の支持の下に20年に渡る開発独裁を続けてきたが、イメルダ夫人などの取り巻きによって私物化され「クローニー(縁故・取り巻き)資本主義」と呼ばれるほどに腐敗した政権となっていた。
1970年には激化する反政府運動に対抗して戒厳令を布告、独裁強権政治体制を確立した。同時期に強権政治と開発独裁を進めたインドネシアのスハルト政権の手法を真似て、特権階級や地主階級の権益を没収し、貧民や労働者に分配するという経済改革を行うとされたが、実際にはマルコスの一族や取り巻きにその多くが引き継がれた。
マルコス圧制の下、野党指導者ベニグノ・アキノら有力者は、拘束されたり、さらに何千人もが北アメリカに亡命移住せざるを得なかった。不正選挙や経済停滞という失政が露呈するなか、ベニグノ・アキノ上院議員が亡命先のアメリカから強行帰国する。しかしフィリピンの地を踏むことなく、マニラ国際空港に着陸した機内で暗殺される事件が発生、暗殺の生々しい様子がテレビニュースで流されたことで、マルコスの権威失墜が決定的となった。
1986年マルコスは正当性を問うための大統領選挙を行うことを余儀なくされ、野党連合はベニグノ・アキノ未亡人のコラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。選挙では大多数がアキノ未亡人に投票されたが、開票不正などでマルコス勝利と発表され、国民の不満は爆発した。これに国軍改革派も呼応し、市民がこれを支持してエドゥサ通りを埋め尽くしたため「エドゥサ革命」と呼ばれ、マルコスはイメルダとともにハワイへ逃亡、コラソン・アキノが大統領に就任した。
マルコスは20年にわたる大統領在任中に、多額の国家資産を横領したとされるが、その全容は解明されていない。またマルコスの政権私物化を象徴するものとして、イメルダ夫人の横暴が話題になった。マルコスの政治に口出しするばかりでなく、自身が大臣など要職についたり、特命全権大使に任命されて各国首脳と外交を展開するなどした。彼女が退去したマラカニアン宮殿はマスコミを通じて公開されたが、「イメルダ・コレクション」として1,000足の靴、900個のハンドバッグ、500着のガウンなどの写真が示され、イメルダの贅沢と浪費癖が国民にさらされた。
*1986.4.28/ ソ連チェルノブイリ原子力発電所の事故発生が発表される。
1986年4月26日ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で暴走事故が起きた。事故当時、4号炉は操業を休止し、非常用発電系統の実験を行っていたが、この実験中に原子炉が暴走し制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。
事故当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を隠蔽し、周辺住民の避難措置も取られなかったため、数日にもわたって住民は高線量の被爆をこうむることになった。また、緊急措置に動員された消防士や兵士や作業員たちは、まともな防御対策なしで投入されたため、致死量を超える放射線を浴び、多くの犠牲者をだすことになった。
このチェルノブイリ原発事故は、最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、のちの福島原発事故まで、世界最大の原子力発電所事故とされた。そのため福島原発事故との比較でチェルノブイリが持ち出されることが多いが、さまざまな議論がなされ、現在も詳細検証中であるため、安直に比較はできない。
確実な違いは、まず事故の直接原因で、チェルノブイリでは、電源実験の最中に暴走を起すという、人為的なミスと原子炉構造上の欠陥によるものであった。福島では、未曾有の大地震による大津波で全冷却電源が失われ、結果炉心が露出し続け融解した。
両者の原子炉はまったく設計思想が異なっており、チェルノブイリ型は旧ソ連が軍事用途で作りだした原子炉の方式を転用したもので、原爆燃料となる高濃度の濃縮ウランを取り出す目的が優先されている。さらに通常出力の10倍程度で臨界爆発するような制御技術であり、しかも炉心制御には炭素原子からなる黒鉛が使われており、これが燃え続け事故を拡大した。
一方、福島第一の原子炉は、当初から発電用としてアメリカで開発されたBWR型(沸騰水型原子炉)であり、炉心のある圧力容器の外側にさらに格納容器があり、これのないむき出しのチェルノブイリと比べると、拡散される放射性物質の量は決定的に異なっているうえ、直接放出する放射線も遮蔽される構造であった。
とはいえ、両原発とも完全収束は遠い先のことで、現在も懸命の対応処理中であり、また100%安全な原子炉などもありえない。さらに、拡散した放射性物質の影響や軽度放射線被爆の長期的な影響も不明な部分が多く、さまざまな立場からの議論がある。そのうえ、既存原発の再稼動と代替エネルギーコストの問題も横たわっている。あくまで確率上の概念である「リスク」を、いたずらにリスク100%か0%でする論議は無意味であり、現実と将来を直視した議論が為されるべきであろう。
*1986.5.4/ 第12回主要先進国首脳会議が東京で開催される。(〜5.6)
第12回先進国首脳会議(東京サミット2)は、1986(s61)年5月4日から6日まで、日本の東京赤坂の迎賓館で開催された。これが日本で2回目で、同じ東京でのサミットであった。ホスト国の中曽根康弘首相は、就任当初の田中角栄の影響も払拭し、保守政治と新自由主義的経済政策で安定した政権運営をしていた。レーガン米大統領とロン・ヤスと呼び合う親密な関係や、同じく英サッチャー首相とも保守的自由主義を認めあう良好な関係を結び、世界を代表する首脳たちと対等に語り合う関係を演出した。
下記一覧にみるように豪華な顔ぶれであったが、世界的に重要な議題は比較的少なかった。前年のプラザ合意により日米の経済摩擦も一段落し、日米英など首脳による新自由主義的経済改革も軌道に乗りつつあり、各国の課題であったインフレも抑制されつつあった。東西冷戦の当の相手ソ連は、アフガニスタン侵攻以降の硬直化で疲弊し、やがてゴルバチョフが登場しグラスノスチ(情報公開)が始まると、その経済的破綻状態が明白になってくる時期であった。
やがてやってくる東側陣営の崩壊前夜であり、リビアなどによる国際テロリズム批判の声明や、ソ連にチェルノブイリ事故の情報公開を求める声明をだして、西側諸国の結束を訴える「東京宣言」によって終幕した。しかしプラザ合意による円高容認は、のちのバブル経済の先駆けでもあった。
「参加首脳」 中曽根康弘(議長・日本国内閣総理大臣)/フランソワ・ミッテラン(フランス共和国大統領)/ロナルド・レーガン(アメリカ合衆国大統領)/マーガレット・サッチャー(イギリス首相)/ヘルムート・コール(西ドイツ首相)/ベッティーノ・クラクシ(イタリア首相)/ブライアン・マルルーニー(カナダ首相)/ジャック・ドロール(欧州委員会委員長)
◎フライデー襲撃事件
*1986.12.9/ タレントのビートたけしら12人が、取材方法に抗議のため講談社「フライデー」編集部に押しかけ、暴行をはたらく。全員現行犯で逮捕される。(フライデー襲撃事件)
1986(s61)年12月8日、ビートたけしと交際していた女性に対し、写真週刊誌「フライデー」の記者が、インタビューしようとして女性の前に立ちふさがりもつれたため、女性は全治2週間の怪我を負った。これに怒ったたけしは、翌12月9日の午前3時過ぎ、たけし軍団メンバーを引きつれ講談社のフライデー編集部に押し掛け、暴行傷害事件へ発展したため全員現行犯逮捕された。
取材した記者も傷害で罰金10万の判決を受けているように、取材方法に問題があったとはいえ、たけし側も暴行は暴行であり批判は免れない。そして、傷害罪でたけしは懲役6ヵ月(執行猶予2年)の判決を受け、軍団メンバーは起訴猶予処分となった。これで終わりだ。
その後マスコミなどでは、「強引な取材は行き過ぎ」というたけしへの同情論、「いかなる事情があっても暴力はいけない」、「人気芸能人が青少年や社会に与える影響は大きい」という意見など、様々な議論が巻き起こった。いずれももっともな意見かもしれない。しかし一方で、どうでもよいという気持が強い。どちらもどちら、持ちつ持たれつの関係にあるもの同士が引き起こした事件で、法的には処分が下されている。
それで終わりであって、この事件が何か社会的な教訓をもたらすものであるとか、今後の対処方法の改善に役に立つというほどのことでもない。素人見解もたくさんあるだろうが、所詮は、たけしが好きか嫌いかという心情に理屈を付けただけのものになるのではないか。
(この年の出来事)
*1986.1.28/ スペースシャトル・チャレンジャー号が、打ち上げ27秒後に爆発、乗組員7人全員が死亡する。
*1986.4.11/ ハレー彗星が76年ぶりに地球に接近する。
*1986.11.15/ 三井物産の若王子信行マニラ支店長が、マニラ市郊外で誘拐される。



0 件のコメント:
コメントを投稿